何を「やらない」のかを考える

「これをやりたい」は願望であって、そこにたどり着くための「やらないこと」を決断して、願望はようやく、戦略としての意味を持つ。

「やらない」を決断したその先には、必然的に不利益を被る誰かが存在するから、戦略を決めることは、たいていの場合「誰を敵にするのか」を決めることでもある。敵と名指しされた誰かは、当然のように反対する。反対の声を受け止めるために、その戦略に乗る側は固まって守りを固めたり、あるいは責任を転嫁するための理屈を共有したりする必要が生じる。

戦略が決定されれば敵が名指しされて、敵の存在は、必然として味方を思考させ、動作を促す。

敵を名指しする仕組み

大昔、「個人のblog が大手メディアに取って代わる」なんて言われて、専門家が書く blog は増えて、恐らくは品質の高い記事も増えたけれど、みんなの目線は結局、大手メディアから2ちゃんねるのコピペブログに持って行かれた。

大手メディアに取って代わる、彼らの居場所を奪うためには戦略が必要だった。戦略を持つということは、「誰を敵にするのか決めること」と言い換えてもいい。個人にとって、「敵」との応対コストは負担が重すぎて、個人blog が誰かを「敵」と名指しするのは難しい。個人のblog はだから、マスメディアに「勝つ」ための戦略を持つことがそもそもできない。

問題を指摘して、叩きやすそうな誰かを敵認定して全力で叩いてみせる、マスコミが「ゴミ」と断じられるあのやりかたは、場当たり的とは言え間違いなく「戦略」であって、戦略があったから、大手メディアは支持を勝ち取った。戦略を持って事に当たるということは、不利益をこうむる誰かから「ゴミ」と面罵されることを引き受けることでもある。マスメディアは会社組織として固まることで、そのコストを負担することに成功したけれど、結果として記事は高価についた。

アルファブロガー」なんて言葉がちょっと流行った昔、その横で、2ちゃんねるのコピペブログが10倍どころじゃないページビューの差をつけて、個人のblogをあっさり追い抜いていった。コピペブログの記事はひどいなんて、やっぱりいろんなところで叩かれたけれど、敵がいて、膨大な観客数という成果を上げて、マスメディアのあのやりかたは、戦略としてやはり正しい。分かりやすい敵を名指しして叩きつつ、批判されれば「これは某掲示板の声だから」と回避する、敵の作りかたを踏襲しつつ応対コストを削減する、コピペブログは何を言われても、まだまだ伸びるんだろうと思う。

「いい記事」には意味がない

「専門家の知見を持って公平で分かりやすい記事を書く」という方針は、これは戦略ではなく戦術であって、無敵の戦術を、戦略無しに行使したところで、戦局は微動だにしない。

「個人blog はいい記事がある」というのが部分的に真実であったとしても、「いい記事を書けば伝わる」という考えかたは、願望であって戦略じゃない。同様に、「マスメディアの記事はひどい」が部分的に真実であったとして、彼らはそれでも、「分かりやすい敵を叩いてそれに同調する人たちを対象に記事を届ける」という戦略の元に記事を作って、批判されるのが前提として、それに備えているのだとも言える。

メディアの間違いを指摘したり、記事の品質を批判する人たちは、メディアの戦略から見れば、そもそもお客さんとして認識されていない。個々の記事に間違いを指摘したり、低い品質の記事を批判したりすることは、よしんばそれに「勝利」できたとしても、大手メディアが今いる場所は微動だにしない。

何を「やらない」のかを考える

正しい戦略はあらゆる戦術を凌駕する。間違った戦略であっても、戦略の放棄よりはよほど意味がある。

戦術というものは手続き指向的な考えかたであって、戦略は、問題に対してより制約的であろうと試みる。「どうやって勝つのか」を考えるのが戦術なら、「勝つために何をあきらめるのか」を決断するのが戦略であるとも言える。

「目の前の問題全てを頑張る」というやりかたは、体力的にはいちばん困難なやりかたであるようでいて、戦略不在の、全く頭を使っていないやりかたでもある。無目的な努力が許されるのは戦術レベルまでであって、どこかで何かをあきらめる決断を行わない限り、戦略は生まれない。戦術でどれだけの成果を上げたところで、戦略不在の戦略は、成果には決して結びつかない。

自分が今いる場所、入院も受け持つ一般内科というありかたは、そういう意味で戦略ないよなと思う。単なる便利屋でなく、他科と協力できる自分の居場所がほしいのならば、「これができない」という何かを持つ、何かをあきらめてみせることが大切になってくる。

丈夫なシステムについて

大学病院に入局した昔、田舎の電源事情は妙に悪くて、停電は日常だった。雷が落ちると病棟の電気が消えて、エレベーターに看護師さんが閉じ込められたり、大学のインフラは案外貧弱だったのだけれど、業務はあまり止まらなかった。非常用発電機の音を聞きながら、暗い病棟に殴り書きの伝票を持った研修医が走り回って、走らされるほうも、受け取るほうも、いい加減なシステムを回すのはきっと大変だったのだろうけれど。

きっちりやると脆くなる

震災直後の停電で、近隣の基幹病院は、病院の機能全てがダウンした。

電子カルテや画像診断装置が動かなくなるのはもちろん、薬剤を処方しようにもオーダーは出せないし、記録を残そうにもPCが動かない。救急外来の機能は止まって、救急車を受けることはもちろんできなくなって、調理室が上の階にあったから、入院患者さんに食事を配膳するのも大変だったのだと。

新しい施設は電子化が行き届いていて、動線は短く、働いていて効率がいい。昔ながらの紙伝票、増改築を繰り返した古い施設は、普段走り回っていて不便なことこの上ないけれど、紙の伝票は停電しても使えたし、改築を重ねた結果としてフロアをつなぐ階段がやたらと多い当院では、エレベーターが動かなって以降、人が動く階段と、病棟への食事配膳に使う階段と、それぞれ専用の流れを割り当てることができた。

原始を電子で制御する

大学が電子化されて久しいけれど、集中治療室の業務については、紙を使った伝票システムになっていた。

電子オーダーはどうしても入力が面倒になる。末端部分である種の複雑さを引き受けることで、全体として情報の流れがスムーズになるのが電子化の利点だけれど、1日のうちにオーダーがどんどん変わる集中治療室で複雑さを引き受けてしまうと、業務が止まる。電子の苦手な上の先生がたが文句を言い続けた成果なのだろうけれど、集中治療室では部屋の中だけ紙で回して、結局研修医が「電子化」することで外部システムとの整合を取っていた。

あのやりかたは研修医の評判が悪かったけれど、今回の停電にしても、たぶん集中治療室だけは業務が止まらなかったのではないかと思う。

機能の独立性は大切

つい最近、電気工事のクレーン車が電線を切ってしまったとかで、わずかな時間、予告無しの停電が発生した。結果としてこのとき、当院では画像配信システムが機能停止して、近隣基幹病院では、例によって全機能が停止した。

電源が復活すれば、PCを再起動すればいいのだけれど、個体のPCを立ち上げるのと、ネットワーク全てを再起動するのとではわけが違うらしくて、電源は復活しても、メーカーの人が来てくれるまで、システムは復帰しなかった。配信システムは止まったけれど、CTやMRI自体は動かすことができたから、画像配信システムを使わずに、放射線室まで画像を直接見に行けば、業務を回すことはできた。

レントゲンと言えばフィルム撮影だった昔、レントゲン室は写真を撮って、それを現像して配信するところまでがひとかたまりの機能として独立していた。今もまだ、他院に患者さんを紹介する際にはフィルムを現像する必要があって、そのための設備には画像モニターがついていて、ネットワークが落ちたときにはそれが役に立った。

昔ながらのやりかたは、レントゲン室でフィルムに焼いた画像を技師さんが外来まで持ってきてくれるのだけれど、画像配信システムは、画像閲覧の機能を外来の机に持ち込むことになる。画像はきれいで、撮影したその瞬間に閲覧が可能になるけれど、レントゲン室と外来と、お互いの依存が強まってしまう。普段はそれが長所になるけれど、外乱に対する備えを考える際には、依存は少ない方が安全になる。

丈夫さと効率について

外乱に対して頑丈な、ダメージ相応に機能を減じつつ、それでも止まらずなんとかまわるシステムには、たぶんいくつかの共通事項がある。

各機能はそれぞれ外に対して閉じて独立で、それぞれの機能単位は、動作が見込める限りにおいて穏やかに結合していることが望ましい。「結合」をになっていたのは、昔だったら伝票を持った人間で、今だとそれが電子になるけれど、電子が生み出す結合は強力に過ぎて、外乱に対してまだまだ弱い。

機構は原始的に、制御は近代的に、系は時代を内包することが望ましい。昔ながらの原始的なやりかたに、皮だけ新しい制御を被せるやりかたはみっともなくて、最新の制御系で機構から作り直したくもなるけれど、こうした無様さは、しばしば外乱に対する安定に結びつく。時代を切り戻せるシステムは、何かの原因で最新の制御系が落ちたとき、暫定的に昔のやりかたに戻すことで、システムを止めずに当座をしのげる。うちの施設にしても、会計処理こそ全てPCだけれど、伝票は紙だったから、停電したときには記録だけ紙に残して、会計は全て後回しでどうにか業務を止めずに済んだ。

こういうやりかたは間違いなく効率を下げて、世の中を競争で回す限りは真っ先に削除されてしまう。「止まりにくさ」の測定はできないし、「今動いていること」は、「止まらないこと」の保証にならない。基準がないから、世の中のシステムはどんどん脆く、落ちたときの被害はむしろ大きくなっていく。

「この業務に必要なロバストネス」を、ルールを作る側の人たちは定義してほしいなと思う。

聞く仕事のこと

ホームセンターにドリルを買いに来る人は、本当はドリルが欲しいのではなくて、「穴」がほしい。穴をあけるのにドリルは必要ないかもしれないし、棚を作ったり椅子を作ったり、穴を使って達成したい何かには、もしかしたらそもそも、穴なんて必要ないかもしれない。

ドリルを買いに来た人に、性能のいいドリルを勧める店員さんは、「お客さんが本当に欲しかったもの」を提供できていない可能性があって、ドリルに詳しくなることとは、もしかしたら「いい店員になること」を遠ざける。

ネットには無数の情報があって、無数の読者がいて、記事を読んでは、またそれを話題に盛り上がる。じゃあネットで記事を熱心に読む人たちが、本当のところ何がほしかったのかといえば、ドリルの理論を延長すると、情報それ自体ではなくて、むしろ「聞いてくれる人」なのではないか、という妄想に到達する。

多くの人はたぶん、誰かに聞いてほしいから、何かの話題を作りたいから記事を読む。知識を仕入れて、誰かと一緒に盛り上がりたいから、情報を頭に入れる。ネットには無数の情報があふれていて、誰かに何かを話したい人もたくさんいて、その割にたぶん、誰かの話に耳を傾けたい人は、それほど多くはないのではないかと思う。

5ヶ月前からの倦怠感が症状の患者さんが、朝の5時過ぎに救急搬送された。「日中の病院は忙しそうで、ぜひとも話をちゃんと聞いてもらいたかったんですよ」なんて、救急隊に囲まれて、笑顔だった。受ける側としては迷惑なんだけれど、そういう需要はたしかにあって、保険診療の範囲では、たぶん「聞いてもらうこと」は購入できない。

「聞くこと」には確実な需要が見込めるけれど、「お金を支払ってでも聞いてほしい」という人は、案外少ない。需要というものは、そこに何かの「いいわけ」を挟まないと、お金に変換するのが難しい。

昼休み時間になるとやってくる、会社の近くで店を開くお弁当屋さんが売っているものは、「安価な食事」ではなく、「昼休みにちゃんと休める時間」なのだ、という記事を最近読んだ。そうしないと外食に誘われて、結果として長い時間を消費してしまうのだと。近くで売られたお弁当は、お弁当であるのと同時に、外食を体よく断るいいわけにもなっていて、それが価値になっているのだと。

「聞いてほしい」という需要にしても、そこにお金を支払ってもらうためには何かのいいわけが必要になる。いいわけに対価を支払って、その「ついで」に聞いてもらう、という形式を取らないと、「聞くこと」は満足につながらない。傾聴ボランティアみたいなやりかたは、その場ではもちろんそれが必要で、必要なものをそのまま提供する手段になっているのだけれど、やはり少し違うような気がする。聞いてもらいたい人は、同時にたぶん、聞く側からは「聞いてもらいたかったのですね」と思われたくない。

誰もがいつでも発信できるのがネットの良さではあるけれど、誰もが発信するようになって、「聞くこと」の需要はむしろ増えた。ネットに接続する人たちが本当に求めるものを、適切な「いいわけ」と共に提供できる人が、これから先、経済的な成功をおさめるのだろうと思う。

講習会覚え書き

最近参加した、某講習会での感想。新しいことを教えてくれる講習会というよりも、ある程度知っていたことを整理して、ひとかたまりの知識として提供してくれるようなものだった。有償。

スライド棒読みはそこそこ満足できる

  • 研究発表よりも資格講座に近い講習会だったから、スライドは教科書の抜粋で、その分野の参考書も、講習会で使われたパワーポイントも、ハンドアウトとしてあらかじめもらうことができた。その結果として、講習会は「パワーポイントの朗読」に近い形式になってしまうことになったけれど、それでも案外、「何かを聞いた」という満足感が得られた
  • スティーブジョブズのプレゼンテーションは、あれは全く新しい何かを予告無しに紹介するという、プレゼンテーションとしてはむしろ特殊な状況であって、講習会みたいな場所で、ジョブズと同じことをやろうものなら、たぶんメモ取りが追いつかなくなる。プレゼンテーションの話者が場を上手に盛り上げるほどに、頭に残る知識は減ってしまうのではないかと思う。そういう意味では、パワーポイントを朗読するようなやりかたは、必ずしも悪い例ではなく、ある程度確実な効果が期待できる次善の策として、十分に通用するのではないかと思った
  • ジョブズのやりかたは、それでも参考になるのではないかと思えた。慣れている演者の先生は、演壇から自分たちの側に歩み寄りつつ、スライドを見ないで、スライドの内容を言葉で伝えた。話されている内容こそ、ハンドアウトに書かれた内容をそのままなぞっていたけれど、それがいかにも上手に見えた。同じような「朗読」であっても、スライドの文字をレーザーポインターで追いながら文章を読む演者の講演は、いかにも朗読しているように見えて、演者の立ち居振る舞いは、印象をずいぶん変えた

脱線にもやりかたがある

  • 自分たちが普段学んだり、あるいは実際に利用したりする診療ガイドラインは、必ずしも現場でそのまま使えるものだとは限らないし、その内容に賛成する立場の人もいれば、反対する立場の人もいる。演者の先生がガイドラインを伝える講演を行った際にも、その演者は、必ずしもガイドラインの立場に賛成しているとは限らない
  • 伝えるべき内容と、演者の立ち位置とは、異なっていても全くかまわないはずなのだけれど、けっこう戸惑った。「私はこの勧告にはあまり賛成できません」という前置きを置いてから、講習テキストに対して少し批判的な立ち位置で講演を行った先生がいて、話それ自体は熱意があって上手だったのに、聞く側としては、せっかく何万円ものお金を支払って購入した教科書を、買ったその場で批判されているような気分が残って、最後までそれがぬぐえなかった
  • このあたり、「有償/無償」が印象を微妙に左右しているのではないかと思った。お金を支払って購入したものは、それが自分の判断かどうかはともかく、自分にとって価値のあるものになる。それに対して批判したり、あるいはその教科書から脱線しようと思うのならば、演者は逆に、その教科書に賛成している人以上に、教科書の論理に通じていないと厳しいような気がした。教科書の論理や、それを書いた人の意図するところを肯定的に紹介して、初めてそこから、脱線が聴衆に対する面白さとして効果を発揮してくれる。最初から脱線前提、本筋は各自勉強、という立ち位置は、特に有償の講習会の場合には厳しい印象を持った

経験の提示は難しい

  • 大筋はパワーポイントスライドの朗読、その隙間を補完する形で、たとえば箇条書き形式の病名を紹介する際に、ちょっとした経験談を挟み込んだりするだけで、講習会の満足度はずいぶん上がる気がした
  • その代わり、ちょっとした経験談が、スライドの流れと離れてしまうと、講習の印象がずいぶん変わってしまう。講習会だから、聞く側はメモを取りながらスライドを見ることになるのだけれど、演者の先生がたの経験談には、たまに「どこにメモを書いていいのか分からない話」が出てきて、それがどれだけ面白い逸話であっても、なんだか流れが切られたような印象を生む
  • 特に「例外の提示」が難しいのではないかと思った。大筋の流れがあって、「実際にはこんなふうに実践されているようです」と具体例を提示する分には、経験提示は話を盛り上げ、聞く側をお得な気分にしてくれる。逆に「こういう例外を経験したことがあります。気をつけて下さい」という体験談は、演者が提示した経験がごくまれな例外なのか、それとも今学んでいるガイドライン自体が穴だらけで信用ならないものなのか、例外の提示だけでは判断できない
  • 例外の経験を提示する際には、たとえば「このガイドラインが想定している疾患に、こうした症状が加わった際にはこんな例外を想像したほうがいい。当院でも2年に1回程度ある」だとか、あるいは「ガイドラインの流れで9割以上の疾患については網羅されているものの、残りの可能性として以下の疾患を考慮しなくてはいけない」だとか、呈示された症例と、講習会を通じて学ぶ一般的な傾向との間に、何らかの橋渡しがあるとありがたい
  • 症例は症例、一般的な傾向は、あくまでも統計的に検証されなくてはいけないもので、ここを安易に「橋渡しする」ことは、マスメディアがよくやらかしては叩かれるやりかたそのままなのだけれど、聞くことしかできない側としては、橋渡しをされて、初めてたぶん、講習会の流れの中で、自分が今聞いた体験談の居場所が定まる。知識の置き場所なんて自分で決めるのが筋なのかもしれないけれど、講習会というものそれ自体、ある程度見知った知識に新しい置き場所を与えるための場なのだから、演者の側に過剰なぐらいのサービス精神がないと、聞く側は案外、物足りなく思う

まとめ

  • 講習会の品質というものには、たぶん「面白さ」と「伝わりやすさ」という側面がそれぞれあって、面白い話は必ずしも伝わりやすさを生まないし、スライドをただ朗読するだけの、面白さを捨てたようなやりかたが、それでも案外伝わりやすくて、聞く側の満足度もそこそこ高かったりもする
  • 伝わりやすさを高めていく際には、知識の居場所をきちんと定めて、聞き手を混乱させないことが大切になる。ひたすら朗読するだけのやりかたは、たとえつまらなくても混乱の余地が発生しないし、脱線したり、あるいは例外経験を挟んだりするやりかたは、面白さを増すための方法としては効果が期待できる反面、もしかしたら伝わりやすさを減じてしまう危険がある
  • 笑いどころではきちんと笑い声を挟んだり、芸人が脱線しても司会者が必ず流れを元に戻す、バラエティ番組のあのぬるい空気は、尖っていない代わり、とても分かりやすい。あれをそのまままねするのは少し違うけれど、「面白い講習会にしよう」という意気込みは、必ずしも「いい講習会」にはつながらないのではないかと思えた

間違った「論」には意味がある

勉強は大切だけれど、正しい知識だけを積むのは危ない。

武道を学ぶ際には、受け身の学習が欠かせない。正しい知識を学ぶときにも、正しくない知識の受け止めかたを知らないと、学ぶほどに大けがをする可能性が増えていく。

正しいことと説得できること

正しい知識を積んだ専門家が、ある日いきなり新興宗教に目覚めたりすることがある。そういう人は、学んだ経験こそ莫大だけれど、説得された経験を積んでこなかったのだろうと思う。

それが正しいことと、それが誰かを説得する力を持っていることとは、しばしばなんの関係もない。間違った知識に基づいた論理にたくさんの人が説得されることは珍しくないし、正しい知識を持っていることは、そうした説得から身を守るのに必ずしも役立たない。

正しい知識や、あるいは「努力」を積み重ねてきた人が、説得可能性が高い何かに初めて触れるときが危ない。こういう人は、積んできたものが大きくて、説得されると全財産を突っ込んで、後戻りができなくなってしまう。面白そうな言説に少しだけつきあうつもりが、いきなり狂信者に変貌したりするのはこうしたケースで。大学の新学期みたいな場所は、だからこそ危ないのだと思う。

侮蔑はやめたほうがいい

正しい何かを教える際には、たとえば「地動説が証明されました。天動説信じてた奴らは筋金入りの阿呆ですよね」みたいな教えかたをしてはいけないのだと思う。これをやってしまうと、「地動説は、天動説を信じる連中が馬鹿だから正しい」といった価値がすり込まれてしまう。科学的に見て、地動説がどれだけ正しかったとしても、こうした学習を通じて得られた知識は説得に弱い。

ある確信が、異なる意見を持つ誰かに対する侮蔑を根拠になっていることはけっこうあって、こういう人は脆い。

「○○を信じているのは馬鹿ばっかりだ。だから○○は間違っていて、それを叩く自分は正しい」で知識が完結している人には、論争や説得といった手続きが必要ない。説得を試みる側が「いい人」であることを見せるだけで、確信の根拠が崩れてしまう。たまたま知り合った誰かが○○を信じていて、しかも「いい人」だったりすると、侮蔑に基づいた確信はそこで詰む。その人の中に、自身が信じるに足る何かが無かったときには、侮蔑していた○○を信じる輪に加わらざるを得なくなる。その人が正しい知識をたくさん積んできた人ならば、積んだ量がそのまま、狂信のエネルギーに転化する。

自分の考えかたとは異なる何かを叩こうと思ったら、「自分は何を叩けるのか」だけでなく、「自分は何を信じているのか」を、ちゃんと考えておかないと危ない。「好きなもののリストを公開してから嫌いなものを叩け」という原則は、自身の被説得域値を高める上でも意味がある。

「論」には力がある

Web にある短い文章、論というよりもつぶやきに近いそれは、自分が持っている考えかたやものの見かたを補強したり、飾ったりするときの材料になる。「うまい一言」を読むのは楽しいのだけれど、こうした文章の断片は、考えかたそれ自体を揺さぶる役には立たない。

販売されている本の多くは、それを作るのに1年近い時間がかかる。作家と編集者と、1年かけて何をしているのかといえば、作家の生み出した無数の断片を編集して、ひとつの「論」としてまとめているのだと思う。

「論」というものは、ある意図に基づいた編集が行われていて、長い文章が構造を持っている。論はそこだけ取りだして自分を飾るのに使うという用途には不向きで、作者の意図につきあわないと、読むことが難しい。

ひとかたまりの論を読むことは、同時に自分自身が持っているものの見かたを揺さぶられたり、曲げられたり、という体験にもなっている。論として整合性がとれている本は、だから読むのに面倒で、時に苦痛でもあるのだけれど、自分自身の考えかたを、外乱に対して頑丈にする役に立つ。

下らないものには意味がある

教養を身につけようと思ったら、正しい知識を学ぶ一方で、正しくない知識の受け止めかたを知らないといけない。受け止めるためには説得されることが必要で、もっともらしくて、そのくせ間違いだと分かっているような何かに説得される経験が大切になってくる。

下らない脳内妄想にのめり込む「中二病」というものは、そういう意味では本当に「はしか」みたいなもので、誰もがかかるし、また子供の頃にちゃんとかかっておかないと、大人になって大変なことになってしまう。

下らなくて面白いものが、知識を教養に転化してくれる。下らないのに、間違っているのに、どうしてこれは面白いのか。自身が学んだ「正しい」知識に基づいて、そうした「なぜ」を考えることが教養の始まりになるのだと思う。

熱心な人は恐ろしい

それが敵であっても味方であっても、正義や熱意で動く人というのは恐ろしい。

損得勘定で動く人なら、立ち位置が異なっても会話はできるし、お互いの行動はある程度読めるけれど、正義や熱意で動く人はまず真っ先に損得勘定を除外するから、何が出てくるのか分からない。

有能な敵は頼りになる

「有能な敵」は、状況によっては味方よりも頼りになる。「無能な味方」は、もしかしたら真っ先に背中を刺しに来る。

倒さなくてはいけない相手だからこそ、抜け目のない敵は相手をよく観察している。観察した相手だからこそ話は通じて、立場は異なっても、ゆがみのない会話ができる。味方を自認する人は、味方であることにしばしば安住してしまう。観察を怠った人は、「あいつならたぶんこうだろう」という予測が外れると怒り出す。味方であったはずなのに。

当直時間帯における頼るべき「有能な敵」は、「見逃すと翌朝までに患者さんが亡くなりうる疾患」のリストに相当する。病気の数は無数だけれど、時間軸を翌朝までにすることで、特定の症状から急変に至る疾患の数を限定できる。原因がこれと定まらないときには、そこに「能な敵がいない」ことをもって、暫定的な「大丈夫」を定義できる。

正義感が背中を刺しにくる

当直時間帯における「無能な味方」は、正義感や使命感の姿を借りる。

「疲れた」だとか「面倒くさい」という感情は、「訴えられたくない」という後ろ向きな気分を捨てない限り、致命的な判断ミスにはつながりにくい。「患者さんのため」だとか、「医療資源を無駄にしたくない」だとか、当直医の頭によぎった道徳や正義が、踏んではいけない地雷を踏ませる。

「ここで頑張って詳細な身体所見を取ることで、血液検査は出さないで返そう」と思うときが一番危ない。うまく回っているときには、そもそも「頑張って」という感覚は浮かばない。頑張るという状態は、すでにして平時でない状況で、そこで浮かんだ道徳の声は、たいていの場合間違っている。「疲れた」だとか「サボりたい」といった怠惰の感情は、力にこそならないけれど、ひどいミスにはつながらない。怠惰を前提とした行動計画を組むことで、怠惰はむしろ強みにすらできる。

若い人が原因不明の腹痛を訴えて、外来で連日点滴、腹膜炎を手遅れにした土曜日の夕方、ショック状態になった患者さんが開業医からいきなり紹介されたりする。原因不明の患者さんを、検査もしないで外来で「頑張る」、ああいう行動は、怠惰や無知、保身の文脈からは絶対にありえない。「やらかす」人は恐らくは熱心で、それを正義と信じて、あえて地雷を踏み抜いているのだと思う。

道徳と損得とは両立しうる

研修医の昔、病院長からは「お金を稼げる医師になりなさい」と習った。誰もがどこか過剰な、教育熱心で暑苦しい病院だったけれど、研修医はそれでも、「いい医師に」とか「正義の医師に」とか、そういう指導は受けなかった。当時はよく分からなかったけれど、今にして思えばそれが正しいのだと思う。

やりがいとか使命感、道徳や正義を研修医に強要する人は、教育の場から離れたほうがいいように思う。「熱心な医師」は「致命的な誤りを前に止まれない医師」であることが多くて、そういう人と働くと、勝手に起爆装置入れた地雷をこっちに放り投げてくるから、おっかなくてそばに寄れない。

これが研究者ならまた異なってくるのだろうけれど、臨床を安全にやっていく上では、「後ろ向きに抜け目なく」という態度がいいのではないかと思う。患者さんに関わる誰もが「保身第一の屑野郎」ばかりになるだけで、回避できる医療事故はけっこう多い。

「損得で行動しろ」という教えは、「道徳を無視しろ」という教えとは全く異なる。道徳は、「得」を獲得しに行くときにはとても役に立つ道具になるし、道徳を外さず行動することで目先の得を逃がしても、将来的に大きな得を獲得できる可能性を高めるのなら、そうした行動は損得勘定においても正しい。

まず損得を勘定してから道徳を行使するのなら問題はないのだけれど、順番が逆転するのが恐ろしい。まず一番に正義や道徳が来て、損得を敵視するような考えかたや教えかたは、「道徳や正義は立場によってまるで異なってくる」という当たり前の前提を無視してしまう。

「正義は地理から自由になれない」という地政学の考えかたには納得できる気がするし、「普遍的な正義がある」という考えかたは、いろんな人を不幸にする。

熱心な医師であろうとするならば、熱心の取り扱いにはせめて習熟してほしいなと思う。

「普通」の標準偏差

「守り」のことを考えた際には、デモ行進や不買運動といった集団活動と、サービス業における接遇対応とは、注意すべきポイントが似かよってくる。

印象は裾野が決める

デモ行進のようなアピール活動を、「普通に」行うことはとても難しい。訴えたい何かがそこまで極端なものでなくても、集まった人の大半が、無難なやりかたをしていても、報道されたり、写真に撮られたりするのは一番過激な誰かであって、集団の訴えとして取り上げられる声もまた、一番極端な誰かが全体の印象を決定してしまう。

正規分布の中央部分に相当する人たちがどれだけの高みを目指しても、印象は裾野を受け持つ誰かが決める。デモの意志に反対したい人も、それを面白おかしく取り上げたい人も、注目は裾野に集中する。大多数が受け持つ「平均」を見てもらおうと、裾野にいる誰かを、「裾野である」ことを理由に切断すれば、今度は集まりの大義が失われてしまう。

正義の旗印で人を集めると、参加者は「頑張り」を表明するために、しばしば過激さに向かった競争を始めてしまう。単なる行動が暴力になり、公共物を破壊してしまったり、誰かが暴行を受けたりすると、無難を受け持つ大多数の参加者はスローガン自体を嫌いになって、集団は自壊してしまう。

集団行動の危機管理

様々な人を集めて何かを訴えたり、あるいはサービスを提供したりする際には、極端な人の扱いかたが問題になってくる。平均を受け持つ大多数の頑張りは、行動の効果にこそ貢献するけれど、その行動が他の人たちにどんな印象を持って受け止められるのか、印象形成には、そうした頑張りは必ずしも役に立たない。

サービスの印象は、最もうるさい顧客と、最も練度の低い窓口とが出会ったときに決定される。評判を高めようと思ったら、最高をもっと高めるよりも、最低を底上げするほうが役に立つ。同様に、「最高でありすぎる」誰かもまた、しばしばサービスの意味を根底から揺さぶる原因になる。裾野の誰かが生む印象は、すばらしすぎることもまた災厄を生む。利害の異なる誰かが、礼儀正しい集団を叩きたかったのなら、相手の訴えを正面から叩く代わりに、相手の集団に「極端な裾野を付け加えてしまう」というやりかたが、攻撃手段として有用になる可能性もある。

集団行動の危機管理を考える上では、振る舞いの標準偏差をどこまで小さく追い込めるのかに気を使わないといけない。トップがどれだけすばらしい活躍をしても、分布の裾野が広すぎてしまうと、リーダーには印象のコントロールができなくなってしまう。そこに集まった一番極端な誰かが全体の評価を決めて、大多数の頑張りは、もしかすると意味を失ってしまう可能性もある。

偏差を減らす試みについて

有志の集まりは切断できない。「ある大義に賛同すること」が集まりの前提であった場合に、誰かを「極端だ」という理由で切り離してしまうと、集まりの大義が崩れてしまう。

サービス業の接遇対応においては、「お客さんと対応する人に名乗ってもらう」ことが行われる。名乗ることで、「群衆」は個人の集まりに解体されて、群衆がしばしば失う細かい気遣いが、失われず保たれる。

軍隊が戦争を行う際には、「交戦規定」というものが共有される。交戦規定というものは「大義を行動で記述したリスト」であって、何をやるべきなのか、何をやってはいけないのかが明確になることで、それを守らない「よくやり過ぎる」兵士を、集団から切り離すことができる。

集団行動と対峙する側は、最も極端な反応をした誰かを捕まえて、「あの集団はこんな人ばっかり」と嘆いてみせる。それが極端であるほどに、「こんな人」扱いされたくない多数が抜けて、集団は瓦解する。そうした裾野の運用を避ける意味でも、偏差を減らす試みというものは、もっと考えられなくてはいけないのだろうと思う。

「それしかできない」ことは強みになる

極端な人を生み出さないという意味で、amazon のコメント欄を使った不買 (?) 運動というものは、やられる側にとっては極めてやっかいなものになる。

コメント欄にどれだけ悪口を書き込んでも、見ない人は見ないで買うから、デモ行進みたいなやりかたに比べれば効果は限定されるけれど、「コメント欄に書くことしかできない」という制約は、「極端な誰かの印象で全体を語ってみせる」というやりかたが成り立たない。行動を受ける側からすると、反撃の糸口がどこにも存在しないから、数と期間が効果に正比例してしまう。

叩かれた会社の側が何かの反応を返してしまえば、「効いた」となって敵を増やしかねないし、スルーを決め込むと、ガードの上から体力を削られる。会社の危機管理担当の人は、たぶん大変な思いをしているのだろうと思う。