熱心な人は恐ろしい

それが敵であっても味方であっても、正義や熱意で動く人というのは恐ろしい。

損得勘定で動く人なら、立ち位置が異なっても会話はできるし、お互いの行動はある程度読めるけれど、正義や熱意で動く人はまず真っ先に損得勘定を除外するから、何が出てくるのか分からない。

有能な敵は頼りになる

「有能な敵」は、状況によっては味方よりも頼りになる。「無能な味方」は、もしかしたら真っ先に背中を刺しに来る。

倒さなくてはいけない相手だからこそ、抜け目のない敵は相手をよく観察している。観察した相手だからこそ話は通じて、立場は異なっても、ゆがみのない会話ができる。味方を自認する人は、味方であることにしばしば安住してしまう。観察を怠った人は、「あいつならたぶんこうだろう」という予測が外れると怒り出す。味方であったはずなのに。

当直時間帯における頼るべき「有能な敵」は、「見逃すと翌朝までに患者さんが亡くなりうる疾患」のリストに相当する。病気の数は無数だけれど、時間軸を翌朝までにすることで、特定の症状から急変に至る疾患の数を限定できる。原因がこれと定まらないときには、そこに「能な敵がいない」ことをもって、暫定的な「大丈夫」を定義できる。

正義感が背中を刺しにくる

当直時間帯における「無能な味方」は、正義感や使命感の姿を借りる。

「疲れた」だとか「面倒くさい」という感情は、「訴えられたくない」という後ろ向きな気分を捨てない限り、致命的な判断ミスにはつながりにくい。「患者さんのため」だとか、「医療資源を無駄にしたくない」だとか、当直医の頭によぎった道徳や正義が、踏んではいけない地雷を踏ませる。

「ここで頑張って詳細な身体所見を取ることで、血液検査は出さないで返そう」と思うときが一番危ない。うまく回っているときには、そもそも「頑張って」という感覚は浮かばない。頑張るという状態は、すでにして平時でない状況で、そこで浮かんだ道徳の声は、たいていの場合間違っている。「疲れた」だとか「サボりたい」といった怠惰の感情は、力にこそならないけれど、ひどいミスにはつながらない。怠惰を前提とした行動計画を組むことで、怠惰はむしろ強みにすらできる。

若い人が原因不明の腹痛を訴えて、外来で連日点滴、腹膜炎を手遅れにした土曜日の夕方、ショック状態になった患者さんが開業医からいきなり紹介されたりする。原因不明の患者さんを、検査もしないで外来で「頑張る」、ああいう行動は、怠惰や無知、保身の文脈からは絶対にありえない。「やらかす」人は恐らくは熱心で、それを正義と信じて、あえて地雷を踏み抜いているのだと思う。

道徳と損得とは両立しうる

研修医の昔、病院長からは「お金を稼げる医師になりなさい」と習った。誰もがどこか過剰な、教育熱心で暑苦しい病院だったけれど、研修医はそれでも、「いい医師に」とか「正義の医師に」とか、そういう指導は受けなかった。当時はよく分からなかったけれど、今にして思えばそれが正しいのだと思う。

やりがいとか使命感、道徳や正義を研修医に強要する人は、教育の場から離れたほうがいいように思う。「熱心な医師」は「致命的な誤りを前に止まれない医師」であることが多くて、そういう人と働くと、勝手に起爆装置入れた地雷をこっちに放り投げてくるから、おっかなくてそばに寄れない。

これが研究者ならまた異なってくるのだろうけれど、臨床を安全にやっていく上では、「後ろ向きに抜け目なく」という態度がいいのではないかと思う。患者さんに関わる誰もが「保身第一の屑野郎」ばかりになるだけで、回避できる医療事故はけっこう多い。

「損得で行動しろ」という教えは、「道徳を無視しろ」という教えとは全く異なる。道徳は、「得」を獲得しに行くときにはとても役に立つ道具になるし、道徳を外さず行動することで目先の得を逃がしても、将来的に大きな得を獲得できる可能性を高めるのなら、そうした行動は損得勘定においても正しい。

まず損得を勘定してから道徳を行使するのなら問題はないのだけれど、順番が逆転するのが恐ろしい。まず一番に正義や道徳が来て、損得を敵視するような考えかたや教えかたは、「道徳や正義は立場によってまるで異なってくる」という当たり前の前提を無視してしまう。

「正義は地理から自由になれない」という地政学の考えかたには納得できる気がするし、「普遍的な正義がある」という考えかたは、いろんな人を不幸にする。

熱心な医師であろうとするならば、熱心の取り扱いにはせめて習熟してほしいなと思う。