悪役には「ずれ」がある。主役には欠落がある

漫画原作者である小池一夫 さんの「主人公には弱点を。敵役には欠点を」という教えは、シンプルなのにとても深いなと思う。物語を作る側ではなく、読む側からそれを改変すると、主役には「欠落」を、敵役には「ずれ」を、になるのではないかと思う。

悪の組織は素晴らしい

主人公に立ちはだかる「悪の組織」を束ねるのは、理想の上司と形容されるような素晴らしい人物でないといけない。

ブラック企業」に代表されるような、部下をこき使う、魅力のかけらもないような人物を悪の黒幕として設定すると、主役の戦いに大義が生まれない。

ブラック企業の上司は、部下となった人たちから選択肢と睡眠時間を奪う。部下に対して、組織に賛同する意思を引き出すのではなく、「組織に賛同しない」という選択肢を奪おうとする。物語ではたいてい、主人公は悪の組織に何かを奪われた存在として描かれるけれど、「ブラック企業」的な組織の末端には、やはり大切な何かを奪われた人たちが主人公に立ちはだかることになる。

能力にまさる主人公が、等しく「奪われたもの」であるこうした人達を倒してしまったら、読者の共感は主人公から離れてしまう。

物語を背負う悪の組織は、社長から平社員に至るまで、だから自分の意志で組織の目的に賛同し、モチベーションの高い人達で構成される必要がある。

悪の黒幕は素晴らしい人物で、目的は遠く大きく、進捗管理に巧みで部下のモチベーションを引き出すのが上手で、自身には常に厳しく未来を見据える。強力な能力と動機を兼ね備えた人たちが素晴らしい上司のもとに結集して、目的に向かって一丸となって突き進む。主人公の戦いを通じて読者の共感を維持しようと思ったら、悪の組織は必然として、組織としてむしろ理想的なものにならないといけない。

悪役には「ずれ」がある

物語の目的が「主人公に共感する」ことである限り、悪役は必然として、組織人として完璧で好ましい人物で構成されることになる。

こうした人々に「悪」の大義を背負ってもらうために、彼らには「ずれ」が設定されることになる。素晴らしい人達が、高いモチベーションのもとにどれだけ努力したところで、その目的が読者に代表される「普通の人」の思惑と「ずれ」があって、それが迷惑なものであれば、彼らの組織は悪と断じられるに足る。主人公の戦いにも大義が生まれる。

世の中で陰謀が観測される事例の大部分はタイミングがたまたま一致した「無能」であって、能力の高い人達が、ならば本当に「迷惑な目的」に向かって高い動機で結集したとして、果たして目的に邁進する彼らの側が悪なのか、あるいは現状の維持回復を期待する読者の側が悪なのか、「革新」と「既得権」とはどちらの側も正義を名乗るから、本来は誰にも決められないものなのだけれど。

主人公には欠落がある

主人公には逆に、何らかの欠落が設定されていないといけない。欠けているのは勇気であったり腕力であったり、人間的な魅力や、あるいは何らかの知的な欠落かもしれない。いずれにしても「普通の人」にはそれなりにあるべき何かが足りない人物が、主人公としてふさわしい。

普通の人は、問題と対峙した時には、まずは「普通の問題解決」を試みる。ヤクザやカルト宗教みたいな「悪の組織」と対峙しした「普通の人」は、まずは話しあい、住民投票を行い、交渉が決裂すれば警察を要請する。夜中に一人、マスクをかぶって組織の本部を襲ったりしない。

物語の主役は大抵の場合、人として間違ったやりかたでの問題解決を目指す。普通の人がこれをやったら単なる犯罪者であって、物語を盛り上げようと思ったら、主人公からは「問題を普通に解決する」という選択肢を、あらかじめ奪っておかないといけない。

「普通にやる」には何かが足りず、問題と対峙した主人公には「普通に解決する」という選択肢がない。物語はここから始まって、欠落の必然として「普通でない」手段が選択され、主人公は何かと「戦う」ことになる。

主人公にとっての戦いとは、常に「不足の補填」という側面を持つ。悪を倒せば物語は終盤だけれど、「戦う」ことを通じて主人公の欠落もまた補填される。不足を失い、「普通にやる」選択肢を得た主人公は、悪との戦いが終わる頃には、戦う理由も失うことになる。

主人公は能力を持つ

主人公には、欠落に見合った「能力」が付加されることになる。能力は文字どおりの超能力でもいいし、火力であったり知力であったり、人間的な魅力であったり、主人公は、何かの不足と、何かの過剰とを併せ持つことになる。

不足は主人公から「普通」の選択肢を奪う。能力は、主人公が行使せざるを得なくなった「普通でない」選択肢に説得力をもたらす。

物語とは、普通にやるには何かが足りない主人公が、代償として得た何かの能力を用い、戦いを通じて自身の不足を取り戻す過程であるといえる。普通の人には不足も能力も存在しないから、主人公のやりかたはいびつなものとして観測され、そのいびつさが物語の面白さを生み出す。

主役は「不足」と「能力」とを持っている。不足に見合った能力の活かしかたをしている主役は魅力的に見える。不足を無視して、主人公を単なる超人に祭りあげてしまうと、読者の共感が剥がれてしまう。

たとえば犬並みの嗅覚を持っていたり、あるいは壁の向こう側を見ることができたりする主人公は、壁の向こう側に誰がいるのか考えたりしない。能力があって、その能力に頼りきっているのならば、壁の向こうは「すでに見えている」ものであって、思案の対象には成り得ない。それを思案したその時点で、主人公は能力を生かしていないし、主人公の不足には切実さが感じられなくなってしまう。

たとえば空を飛ぶ能力を与えられた主人公には、空中での索敵をやらせてはいけない。そんなのはラジコンヘリでもできることで、その程度の活かしかたでは切実さが足りない。

空を飛べるのだからこそ、主人公は逆に、ひたすらに地図を眺める必要に迫られてほしい。空を飛べる人間が、敵の組織を空から襲撃してみせたところで、銃で打たれればそれで詰む。飛べる能力に頼りきった主人公が何かを成し遂げようとするのなら、「相手が回り道せざるをえない状況でも自分は飛べる」ことを活かす必要があって、「地図を調べて待ちぶせ」という地味な戦法が、飛べる能力の生かしかたになってくる。

誰もが与えられたカードで勝負するしかない。物語ではたいていの場合、悪役にはいいカードが揃っていて、主人公はその代わり、ジョーカーを持っている。

  • 悪の組織は悪を背負うに足るだけの人材を備えているのか
  • 彼らの目的は読者に不快を与えるだけの十分な「ずれ」が備わっているのか
  • 主人公に与えられた不足は何か。それは主人公をいびつな選択肢に追い込むに足るほどに深刻なのか
  • 主人公の能力は何か。主人公はそれを活かした、それに頼りきった戦略で能力を行使できているのかどうか

何かが決定的にかけた主人公が、完璧な能力を備えた迷惑な人々と対峙する。彼らに打ち勝つために、主人公は能力を活かした「卑怯」を行使し、戦いを通じて欠落を取り戻した主人公は、「普通の人」として日常に回帰する。そんな物語が読みたいなと思う。