危機コミュニケーションのゲームデザイン

公平は信頼の基礎になる。ところが災厄に代表される危機的な状況において、機会や配分の公平は、たいていまっ先に失われてしまう。

危機コミュニケーションの現場において、情報の発信者が唯一管理可能な公平は「ルールの公平」であって、信頼が重視されるコミュニケーションにおいては、「それがゲームとして楽しい」ルールの設定が大切になってくる。

「それがゲームとして楽しい」ことと、「その状況におけるルールが信頼できる」こと、ひいては「ルールの範囲内において相手を信頼できること」は等しい価値を持つ。相手から信頼を獲得することは、コミュニケーションの場におけるゲーム構築の試みに他ならないのだと思う。

昔話

原発災害の当初、情報が錯綜して、不安ばかりが広がっていくさなか、英国大使館が「日本の原発についてのお知らせ」という見解を発表した。

新しい情報こそ発表されなかったけれど、現在公開されている情報を吟味して、そこから導かれた大使館の見解を語り、予想されるワーストケースを、過去に発生した最悪の災厄と比較してみせる、英国大使館のあの発表からは、あの時期にあって大きな安心感が得られた。

原発が爆発しそうだ」というニュースが何度も繰り返された夜、総理大臣の会見が設定された。誰もが安心を望むあの時、総理大臣の口から出てきたのは「がんばっている」という言葉だった。全国の人たちが「がんばっている」こと、自分もヘリで視察して「がんばっている」こと、「がんばっている」の連呼で10分間、原子力発電所の現状に関する情報は得られないまま会見は終わり、不信だけが残った。

豚インフルエンザの流行最初期、まだ災厄の全貌もつかめない中、検疫の人たちは防護服で汗まみれになりながら、一生懸命働いていた。「みんながこれだけ頑張っている」というメッセージが、カメラを通じて全国に放映されたけれど、不安はやはり、まだまだ大きかった。

当時某所で、ウィルスというものはしょせんは恐ろしく細かい粉にすぎないこと、湿気で失活すること、紫外線で失活することなど、いくつかをリストにして公開したら、それが安心だという評判をもらった。今にして思えばあれなんかも、医師の考える「こうすれば大丈夫」を公表するだけでは安心にはつながらなかったのではないかと思う。

ゲーム性について

「ルールデザイナーまたは他プレイヤが提示したルールからプレイヤが最適解を求めようとする」という関係が成立する時、それはゲームだと言える。

説得が信頼の獲得であるのなら、それに必要なのは「頑張っている」の連呼ではなく判断の根拠であって、すでに公開されている情報をお互いに共有したうえで、それに基づいた自分の判断を語ってみせることで、コミュニケーションはゲーム性を獲得できる。

ゲームは「楽しい」ものでなくてはいけない。楽しさとは、ルールに対する見通しの良さでもあり、ルールに対する戦略の多様性でもあり、デザイナーとプレイヤーとが、ルールにおいて対等であることでもある。

笑いの許されないクリティカルな現場にあってこそ、コミュニケーションはゲームであって、ルールには「楽しさ」が追求されないといけない。「楽しくできない」ルールでどれだけまじめに語ったところで、プレイヤーが楽しめない以上、ゲームデザイナーに対する信頼は得られない。

内容の「固さ」では、ルールの不備は補填できない。

笑いの要素などどこにもない戦場で、相手に対して身勝手な誠意を見込み、悲壮な覚悟だけで突入を命じる将軍は、部下を皆殺しにしてしまう。お互いが置かれた状況から、「楽しく」殺しあいができるルールを見出して、ルールの範囲で最善の選択肢を探索できる将軍が率いた軍隊は、悲惨な戦場を生き延びる。

有能な将軍は、恐らくは優れたプレイヤーであるのと同時に優れたゲームデザイナーでもあって、名将と讃えられた人物の日常会話は、案外不謹慎なものであったのではないかと妄想する。誠意や道徳を好む真面目な人は、危機にあって部下を殺してしまうだろうから。

危機管理の失敗とゲームの失敗

破綻した危機管理においては、「判断の失敗」や、あるいは「意思の不在」がその原因として語られることが多いけれど、その根本にあるのは「ゲームの失敗」なのだと思う。

判断が失敗と認定されるためには、前提としてそこにルールが成立していなくてはいけない。「それが失敗であったこと」だけでは、ルールの存在を証明できない。判断の失敗が原因とされる危機管理においては、実際にはたぶん、その状況をゲームとして成立させることに失敗していたことのほうが多い。

その状況にルールを見いだせる人にとって、判断とは選択肢の探索に等しい。議論にを通じてより良い選択肢を探索できれば、ルールにおける勝利を獲得できる可能性は向上するし、選択肢の探索に失敗した状況は、「判断の失敗」であると認定される。

「真面目な人」はそもそも、状況にあってルールをデザインしようとしない。判断とは場の総意を探索することであって、探索しようにもルールがないから、議論は改良に結びつかない。判断の根拠はたいてい、そこで流された「汗の量」、「がんばったこと」に求められる。

決断の不在は現場の出血で贖われることになる。

同じ危機管理の失敗であっても、これは「判断の失敗」ではなく、選択肢を探索しようにも、そもそもそこに解くべきゲームが存在していなかった、「ゲームの失敗」なのだと思う。

「専門家に任せておけば必ずうまくいく」という信念は間違いだけれど、「素人に指揮を任せると必ず最悪の選択肢を踏む。とくにその素人が専門家を自認している場合には」という信念はたぶん正しい。専門家は「判断の失敗」から自由になれないけれど、専門家を自認する素人は、そこにゲームを作れない。

危機管理、危機コミュニケーションに必要なのはゲームなのだと思う。危機の当事者であるゲームデザイナーと、災厄の引き受け手である被災者、プレイヤーとがそこには存在する。プレイヤーがお互いの関係を「不公平だ」と思ったら、ゲームは失敗してしまう。ゲームが成立すれば、災厄がどれだけ理不尽なものであったとしても、ゲームが継続される限りにおいて、お互いの信頼は保たれる。

リスクコミュニケーションをゲームデザインで読み解いた解説が読んでみたい。災厄にあって、情報も不十分なあの状況で、政府がどんな発表をすれば信頼を獲得できたのか。リーダーがどんな振る舞いを行い、どう宣言すれば、現場はもう少し動ける可能性があったのか。

あの時点でできることは、恐らくはまだたくさんあったのだと思う。