「普通」の標準偏差

「守り」のことを考えた際には、デモ行進や不買運動といった集団活動と、サービス業における接遇対応とは、注意すべきポイントが似かよってくる。

印象は裾野が決める

デモ行進のようなアピール活動を、「普通に」行うことはとても難しい。訴えたい何かがそこまで極端なものでなくても、集まった人の大半が、無難なやりかたをしていても、報道されたり、写真に撮られたりするのは一番過激な誰かであって、集団の訴えとして取り上げられる声もまた、一番極端な誰かが全体の印象を決定してしまう。

正規分布の中央部分に相当する人たちがどれだけの高みを目指しても、印象は裾野を受け持つ誰かが決める。デモの意志に反対したい人も、それを面白おかしく取り上げたい人も、注目は裾野に集中する。大多数が受け持つ「平均」を見てもらおうと、裾野にいる誰かを、「裾野である」ことを理由に切断すれば、今度は集まりの大義が失われてしまう。

正義の旗印で人を集めると、参加者は「頑張り」を表明するために、しばしば過激さに向かった競争を始めてしまう。単なる行動が暴力になり、公共物を破壊してしまったり、誰かが暴行を受けたりすると、無難を受け持つ大多数の参加者はスローガン自体を嫌いになって、集団は自壊してしまう。

集団行動の危機管理

様々な人を集めて何かを訴えたり、あるいはサービスを提供したりする際には、極端な人の扱いかたが問題になってくる。平均を受け持つ大多数の頑張りは、行動の効果にこそ貢献するけれど、その行動が他の人たちにどんな印象を持って受け止められるのか、印象形成には、そうした頑張りは必ずしも役に立たない。

サービスの印象は、最もうるさい顧客と、最も練度の低い窓口とが出会ったときに決定される。評判を高めようと思ったら、最高をもっと高めるよりも、最低を底上げするほうが役に立つ。同様に、「最高でありすぎる」誰かもまた、しばしばサービスの意味を根底から揺さぶる原因になる。裾野の誰かが生む印象は、すばらしすぎることもまた災厄を生む。利害の異なる誰かが、礼儀正しい集団を叩きたかったのなら、相手の訴えを正面から叩く代わりに、相手の集団に「極端な裾野を付け加えてしまう」というやりかたが、攻撃手段として有用になる可能性もある。

集団行動の危機管理を考える上では、振る舞いの標準偏差をどこまで小さく追い込めるのかに気を使わないといけない。トップがどれだけすばらしい活躍をしても、分布の裾野が広すぎてしまうと、リーダーには印象のコントロールができなくなってしまう。そこに集まった一番極端な誰かが全体の評価を決めて、大多数の頑張りは、もしかすると意味を失ってしまう可能性もある。

偏差を減らす試みについて

有志の集まりは切断できない。「ある大義に賛同すること」が集まりの前提であった場合に、誰かを「極端だ」という理由で切り離してしまうと、集まりの大義が崩れてしまう。

サービス業の接遇対応においては、「お客さんと対応する人に名乗ってもらう」ことが行われる。名乗ることで、「群衆」は個人の集まりに解体されて、群衆がしばしば失う細かい気遣いが、失われず保たれる。

軍隊が戦争を行う際には、「交戦規定」というものが共有される。交戦規定というものは「大義を行動で記述したリスト」であって、何をやるべきなのか、何をやってはいけないのかが明確になることで、それを守らない「よくやり過ぎる」兵士を、集団から切り離すことができる。

集団行動と対峙する側は、最も極端な反応をした誰かを捕まえて、「あの集団はこんな人ばっかり」と嘆いてみせる。それが極端であるほどに、「こんな人」扱いされたくない多数が抜けて、集団は瓦解する。そうした裾野の運用を避ける意味でも、偏差を減らす試みというものは、もっと考えられなくてはいけないのだろうと思う。

「それしかできない」ことは強みになる

極端な人を生み出さないという意味で、amazon のコメント欄を使った不買 (?) 運動というものは、やられる側にとっては極めてやっかいなものになる。

コメント欄にどれだけ悪口を書き込んでも、見ない人は見ないで買うから、デモ行進みたいなやりかたに比べれば効果は限定されるけれど、「コメント欄に書くことしかできない」という制約は、「極端な誰かの印象で全体を語ってみせる」というやりかたが成り立たない。行動を受ける側からすると、反撃の糸口がどこにも存在しないから、数と期間が効果に正比例してしまう。

叩かれた会社の側が何かの反応を返してしまえば、「効いた」となって敵を増やしかねないし、スルーを決め込むと、ガードの上から体力を削られる。会社の危機管理担当の人は、たぶん大変な思いをしているのだろうと思う。