間違った「論」には意味がある

勉強は大切だけれど、正しい知識だけを積むのは危ない。

武道を学ぶ際には、受け身の学習が欠かせない。正しい知識を学ぶときにも、正しくない知識の受け止めかたを知らないと、学ぶほどに大けがをする可能性が増えていく。

正しいことと説得できること

正しい知識を積んだ専門家が、ある日いきなり新興宗教に目覚めたりすることがある。そういう人は、学んだ経験こそ莫大だけれど、説得された経験を積んでこなかったのだろうと思う。

それが正しいことと、それが誰かを説得する力を持っていることとは、しばしばなんの関係もない。間違った知識に基づいた論理にたくさんの人が説得されることは珍しくないし、正しい知識を持っていることは、そうした説得から身を守るのに必ずしも役立たない。

正しい知識や、あるいは「努力」を積み重ねてきた人が、説得可能性が高い何かに初めて触れるときが危ない。こういう人は、積んできたものが大きくて、説得されると全財産を突っ込んで、後戻りができなくなってしまう。面白そうな言説に少しだけつきあうつもりが、いきなり狂信者に変貌したりするのはこうしたケースで。大学の新学期みたいな場所は、だからこそ危ないのだと思う。

侮蔑はやめたほうがいい

正しい何かを教える際には、たとえば「地動説が証明されました。天動説信じてた奴らは筋金入りの阿呆ですよね」みたいな教えかたをしてはいけないのだと思う。これをやってしまうと、「地動説は、天動説を信じる連中が馬鹿だから正しい」といった価値がすり込まれてしまう。科学的に見て、地動説がどれだけ正しかったとしても、こうした学習を通じて得られた知識は説得に弱い。

ある確信が、異なる意見を持つ誰かに対する侮蔑を根拠になっていることはけっこうあって、こういう人は脆い。

「○○を信じているのは馬鹿ばっかりだ。だから○○は間違っていて、それを叩く自分は正しい」で知識が完結している人には、論争や説得といった手続きが必要ない。説得を試みる側が「いい人」であることを見せるだけで、確信の根拠が崩れてしまう。たまたま知り合った誰かが○○を信じていて、しかも「いい人」だったりすると、侮蔑に基づいた確信はそこで詰む。その人の中に、自身が信じるに足る何かが無かったときには、侮蔑していた○○を信じる輪に加わらざるを得なくなる。その人が正しい知識をたくさん積んできた人ならば、積んだ量がそのまま、狂信のエネルギーに転化する。

自分の考えかたとは異なる何かを叩こうと思ったら、「自分は何を叩けるのか」だけでなく、「自分は何を信じているのか」を、ちゃんと考えておかないと危ない。「好きなもののリストを公開してから嫌いなものを叩け」という原則は、自身の被説得域値を高める上でも意味がある。

「論」には力がある

Web にある短い文章、論というよりもつぶやきに近いそれは、自分が持っている考えかたやものの見かたを補強したり、飾ったりするときの材料になる。「うまい一言」を読むのは楽しいのだけれど、こうした文章の断片は、考えかたそれ自体を揺さぶる役には立たない。

販売されている本の多くは、それを作るのに1年近い時間がかかる。作家と編集者と、1年かけて何をしているのかといえば、作家の生み出した無数の断片を編集して、ひとつの「論」としてまとめているのだと思う。

「論」というものは、ある意図に基づいた編集が行われていて、長い文章が構造を持っている。論はそこだけ取りだして自分を飾るのに使うという用途には不向きで、作者の意図につきあわないと、読むことが難しい。

ひとかたまりの論を読むことは、同時に自分自身が持っているものの見かたを揺さぶられたり、曲げられたり、という体験にもなっている。論として整合性がとれている本は、だから読むのに面倒で、時に苦痛でもあるのだけれど、自分自身の考えかたを、外乱に対して頑丈にする役に立つ。

下らないものには意味がある

教養を身につけようと思ったら、正しい知識を学ぶ一方で、正しくない知識の受け止めかたを知らないといけない。受け止めるためには説得されることが必要で、もっともらしくて、そのくせ間違いだと分かっているような何かに説得される経験が大切になってくる。

下らない脳内妄想にのめり込む「中二病」というものは、そういう意味では本当に「はしか」みたいなもので、誰もがかかるし、また子供の頃にちゃんとかかっておかないと、大人になって大変なことになってしまう。

下らなくて面白いものが、知識を教養に転化してくれる。下らないのに、間違っているのに、どうしてこれは面白いのか。自身が学んだ「正しい」知識に基づいて、そうした「なぜ」を考えることが教養の始まりになるのだと思う。