何を「やらない」のかを考える

「これをやりたい」は願望であって、そこにたどり着くための「やらないこと」を決断して、願望はようやく、戦略としての意味を持つ。

「やらない」を決断したその先には、必然的に不利益を被る誰かが存在するから、戦略を決めることは、たいていの場合「誰を敵にするのか」を決めることでもある。敵と名指しされた誰かは、当然のように反対する。反対の声を受け止めるために、その戦略に乗る側は固まって守りを固めたり、あるいは責任を転嫁するための理屈を共有したりする必要が生じる。

戦略が決定されれば敵が名指しされて、敵の存在は、必然として味方を思考させ、動作を促す。

敵を名指しする仕組み

大昔、「個人のblog が大手メディアに取って代わる」なんて言われて、専門家が書く blog は増えて、恐らくは品質の高い記事も増えたけれど、みんなの目線は結局、大手メディアから2ちゃんねるのコピペブログに持って行かれた。

大手メディアに取って代わる、彼らの居場所を奪うためには戦略が必要だった。戦略を持つということは、「誰を敵にするのか決めること」と言い換えてもいい。個人にとって、「敵」との応対コストは負担が重すぎて、個人blog が誰かを「敵」と名指しするのは難しい。個人のblog はだから、マスメディアに「勝つ」ための戦略を持つことがそもそもできない。

問題を指摘して、叩きやすそうな誰かを敵認定して全力で叩いてみせる、マスコミが「ゴミ」と断じられるあのやりかたは、場当たり的とは言え間違いなく「戦略」であって、戦略があったから、大手メディアは支持を勝ち取った。戦略を持って事に当たるということは、不利益をこうむる誰かから「ゴミ」と面罵されることを引き受けることでもある。マスメディアは会社組織として固まることで、そのコストを負担することに成功したけれど、結果として記事は高価についた。

アルファブロガー」なんて言葉がちょっと流行った昔、その横で、2ちゃんねるのコピペブログが10倍どころじゃないページビューの差をつけて、個人のblogをあっさり追い抜いていった。コピペブログの記事はひどいなんて、やっぱりいろんなところで叩かれたけれど、敵がいて、膨大な観客数という成果を上げて、マスメディアのあのやりかたは、戦略としてやはり正しい。分かりやすい敵を名指しして叩きつつ、批判されれば「これは某掲示板の声だから」と回避する、敵の作りかたを踏襲しつつ応対コストを削減する、コピペブログは何を言われても、まだまだ伸びるんだろうと思う。

「いい記事」には意味がない

「専門家の知見を持って公平で分かりやすい記事を書く」という方針は、これは戦略ではなく戦術であって、無敵の戦術を、戦略無しに行使したところで、戦局は微動だにしない。

「個人blog はいい記事がある」というのが部分的に真実であったとしても、「いい記事を書けば伝わる」という考えかたは、願望であって戦略じゃない。同様に、「マスメディアの記事はひどい」が部分的に真実であったとして、彼らはそれでも、「分かりやすい敵を叩いてそれに同調する人たちを対象に記事を届ける」という戦略の元に記事を作って、批判されるのが前提として、それに備えているのだとも言える。

メディアの間違いを指摘したり、記事の品質を批判する人たちは、メディアの戦略から見れば、そもそもお客さんとして認識されていない。個々の記事に間違いを指摘したり、低い品質の記事を批判したりすることは、よしんばそれに「勝利」できたとしても、大手メディアが今いる場所は微動だにしない。

何を「やらない」のかを考える

正しい戦略はあらゆる戦術を凌駕する。間違った戦略であっても、戦略の放棄よりはよほど意味がある。

戦術というものは手続き指向的な考えかたであって、戦略は、問題に対してより制約的であろうと試みる。「どうやって勝つのか」を考えるのが戦術なら、「勝つために何をあきらめるのか」を決断するのが戦略であるとも言える。

「目の前の問題全てを頑張る」というやりかたは、体力的にはいちばん困難なやりかたであるようでいて、戦略不在の、全く頭を使っていないやりかたでもある。無目的な努力が許されるのは戦術レベルまでであって、どこかで何かをあきらめる決断を行わない限り、戦略は生まれない。戦術でどれだけの成果を上げたところで、戦略不在の戦略は、成果には決して結びつかない。

自分が今いる場所、入院も受け持つ一般内科というありかたは、そういう意味で戦略ないよなと思う。単なる便利屋でなく、他科と協力できる自分の居場所がほしいのならば、「これができない」という何かを持つ、何かをあきらめてみせることが大切になってくる。