聞く仕事のこと

ホームセンターにドリルを買いに来る人は、本当はドリルが欲しいのではなくて、「穴」がほしい。穴をあけるのにドリルは必要ないかもしれないし、棚を作ったり椅子を作ったり、穴を使って達成したい何かには、もしかしたらそもそも、穴なんて必要ないかもしれない。

ドリルを買いに来た人に、性能のいいドリルを勧める店員さんは、「お客さんが本当に欲しかったもの」を提供できていない可能性があって、ドリルに詳しくなることとは、もしかしたら「いい店員になること」を遠ざける。

ネットには無数の情報があって、無数の読者がいて、記事を読んでは、またそれを話題に盛り上がる。じゃあネットで記事を熱心に読む人たちが、本当のところ何がほしかったのかといえば、ドリルの理論を延長すると、情報それ自体ではなくて、むしろ「聞いてくれる人」なのではないか、という妄想に到達する。

多くの人はたぶん、誰かに聞いてほしいから、何かの話題を作りたいから記事を読む。知識を仕入れて、誰かと一緒に盛り上がりたいから、情報を頭に入れる。ネットには無数の情報があふれていて、誰かに何かを話したい人もたくさんいて、その割にたぶん、誰かの話に耳を傾けたい人は、それほど多くはないのではないかと思う。

5ヶ月前からの倦怠感が症状の患者さんが、朝の5時過ぎに救急搬送された。「日中の病院は忙しそうで、ぜひとも話をちゃんと聞いてもらいたかったんですよ」なんて、救急隊に囲まれて、笑顔だった。受ける側としては迷惑なんだけれど、そういう需要はたしかにあって、保険診療の範囲では、たぶん「聞いてもらうこと」は購入できない。

「聞くこと」には確実な需要が見込めるけれど、「お金を支払ってでも聞いてほしい」という人は、案外少ない。需要というものは、そこに何かの「いいわけ」を挟まないと、お金に変換するのが難しい。

昼休み時間になるとやってくる、会社の近くで店を開くお弁当屋さんが売っているものは、「安価な食事」ではなく、「昼休みにちゃんと休める時間」なのだ、という記事を最近読んだ。そうしないと外食に誘われて、結果として長い時間を消費してしまうのだと。近くで売られたお弁当は、お弁当であるのと同時に、外食を体よく断るいいわけにもなっていて、それが価値になっているのだと。

「聞いてほしい」という需要にしても、そこにお金を支払ってもらうためには何かのいいわけが必要になる。いいわけに対価を支払って、その「ついで」に聞いてもらう、という形式を取らないと、「聞くこと」は満足につながらない。傾聴ボランティアみたいなやりかたは、その場ではもちろんそれが必要で、必要なものをそのまま提供する手段になっているのだけれど、やはり少し違うような気がする。聞いてもらいたい人は、同時にたぶん、聞く側からは「聞いてもらいたかったのですね」と思われたくない。

誰もがいつでも発信できるのがネットの良さではあるけれど、誰もが発信するようになって、「聞くこと」の需要はむしろ増えた。ネットに接続する人たちが本当に求めるものを、適切な「いいわけ」と共に提供できる人が、これから先、経済的な成功をおさめるのだろうと思う。