新型インフルエンザ雑感

まだ振り返るには早すぎるのだけれど。

素朴な理解モデルは大切

相手が「未知」である以上、もちろん先に起きることは予想できないんだけれど、 どれだけ未知であろうが、変異しようが、相手がウィルスであるには違いないから、 流行の早い段階で、あるいは学校みたいな場所で、ウィルス粒子の基本的な振る舞いかたを、 誰か偉い人がアナウンスしても良かったと思う。

  • ウィルスは紫外線で壊れる

しょせんはタンパク質の薄い膜に包まれたRNA の粒子だから、日の光に照らされると、 長くは生存できない。人から人への伝播が途絶えた状態で、何日間かすれば、 その地域からは、ウィルスはいなくなる。

  • ウィルスは湿気でも破壊される

湿度50%を超えると、たしか90%以上のインフルエンザ粒子は不活化する。 しょせんは単なる粒だから、ノロウィルスみたいに、吐物や便の中に潜行して、 環境が乾くのまって、復活して飛ぶ種族もいるけれど、インフルエンザはたぶん大丈夫。

  • ウィルスは感染者と対峙しない限りうつらない

それがどれほど恐ろしいウィルスであろうと、ウィルスは単なる微細な「粉」だから、 隣町のウィルス粒子が、はるばる漂って別の町を襲うとか、ちょっと考えられない。だから基本的には、 人の集まる場所を避けて、家の中に引きこもっている分には、まずはうつらない。 HEPA フィルターなんかは必要ないし、部屋の目張りも、必要ない。

対峙した相手を、変な形で擬人化したり、荒ぶる神様みたいなとらえ方をしてしまうと、「たたり」や「穢れ」の 考えかたが生まれて、おかしなことになってしまう。

早い段階で、「あれはただの粉だ」ということを周知していたら、状況は少し変わった気がする。

渋滞を防ぐために、全ての人に、平等に「裏道情報」みたいなものを流してしまうと、 今度は裏道に全ての人が殺到してしまって、役に立たないんだという。 特権階級を恣意的に設定して、その人だけに情報を流すやりかたは、特権階級の割合を3割程度にすると 上手くいくらしいのだけれど、残された7割の人は、たぶん不愉快な気分になってしまう。

ここで「15分後に渋滞が予想されます」みたいな、未来予測情報をみんなに流すようにすると、 裏道を選択する人と、そのまま道を走る人と、上手な具合にばらけて、上手くいくのだという。

仮説だとか、予測情報を早めに発信することで、 情報を受ける側の判断リソースが動員されて、人の流れは多様性を獲得する。マスクに殺到する人とか、 地元ではそんなにひどいことになっていなかったけれど、素朴な理解モデルというのは、 こういうところでも役に立つような気がする。

仮説と切り離されたエビデンスは一人歩きする

マスクについて、「効く」「効かない」の争いを、そこかしこで見かける。良くないことだと思う。

「明確なエビデンスがありません」という表現は、やっぱり仮説の元になった理屈とセットで話さないと危険だし、 誤解を生んでしまう。

「感染予防にマスク」というのは、ベースに「ものすごく微細な粉末が、一定量口に入ると感染」なんて理屈があって、 マスクを使って、粒子それ自体は無理であっても、せめて気流だけでも遮断できれば、感染が防げるかも、 なんて仮説が生まれて、いくつかの検証が行われて、論文になって、今それが、「効く」「効かない」の争いを生む。

論文レベルの検証で「効かない」なんて結果が出たところで、それは理屈が間違ってるのか、 理屈への対処、仮説が間違ってるのか、仮説は正しいんだけれど、それが成立する状況が限定されていて、 論文が想定した状況では、それが成立しないだけなのか、「効かない」にもいろんな段階があるのだけれど、 そういうのを抜きにして「マスクにはエビデンスがない」をやってしまうと、原理主義者同士の宗教戦争になってしまう。

エビデンス」という言葉を、何か神聖なものみたいに扱って、喧嘩の材料に使ったり、 相手を小馬鹿にするための武器として利用するのはとても楽しいんだけれど、 やっぱり間違った使いかたなんだろうと思う。

ビーカーとか試験管は、論文を書くための、単なる道具なのであって、 ビーカーを毎朝拝んだところで、空から論文が降ってくるわけないのに、 エビデンスが好きな人たちは、しばしば似たようなことをしている。

やっぱり言挙げして欲しい

グダグダだったけれど、実際問題、今のところは外来も落ち着いてきて、 今回の流行は、このまま落ち着きそう。

これからたぶん「終息宣言」が出されて、政府の人たちは、たぶん「現実的な対応が功を奏した」なんて 胸張るんだろうけれど、できれば勝利宣言する前に、せめて誰が責任者なのか、それを宣誓してほしいなと思う。

現場はとにかく、「責任者の不在」に振り回された。

  • 舛添大臣は、たしかに責任者の椅子に座っていたけれど、二言目には「専門家の意見を待ちたい」なんて、 質問をそらす
  • 総理はしばしば「弾力的な運用」を口にする。大局的な方針が示されないまま、 「地域ごとの弾力」を期待されても、困ってしまう
  • 地方自治体は、「まだ国の見解が来ない」なんて、判断を下さない。現場から「これはどうなの?」なんて 質問を上げても、行政の人たちも「上」の意向を待っていて、判断できない
  • 感染症専門家の人たちは、助言はするけれど、表には出てこなかったし、恐らくそうした権限も与えられていないのだと思う

たしかに「長」の椅子はあって、そこに座っている人もいるわけだから、その人が責任者には違いないのだけれど、 辞令をもらった誰かがそこに座っていることと、その人が「責任者は私です」と宣言することと、 実質同じではあるけれど、取り組み方の本気度が、大きく変わってくると思う。

今回の「現実的な」やりかたは、結局誰も、明示的な判断を下していないように見えた。 かっこよく言えばボトムアップだけれど、 このまま終わってしまうと、次に「本物」が来たときに、現場は今以上に困ったことになる。

「現実」路線はたいてい上手くいくのだけれど、現実路線というのは、しばしば「正しさ」を逸脱してしまう。 このまま結果オーライで終わる可能性は高そうだけれど、終わってしまうと、今回の事例は、 いったい誰の責任で行われたのか、誰を責任者にしたから上手くいったのか、あいまいなままで、 「次」に生かせるものが残らない。

第二次世界大戦末期、戦艦大和の「特攻」を決断したのは、軍本部の「空気」なんだという。

戦艦を、航空機の支援もなしに出撃させたところで、戦果が期待できるわけもないし、 教科書的にも、それはなんの意味もないやりかたなのだけれど、軍事の専門家が「どうする?」なんて相談して、 「その場の空気として」、特攻させよう、なんて流れになったんだという。

もちろんその攻撃は戦果を上げられなくて、たくさんの人が亡くなったのだけれど、 そういう決断、教科書的にも、歴史的にも、そもそも意味がないとわかりきっている決断を、 その場の誰が下したのか、そこにいた専門家は、どうしてそれに反対しなかったのか、 そういうのは残っていないのだと。

野党の人たちが、与党を叩きに行くのなら、「政府は正しい検査を行おうとせず、 新型インフルエンザの実体から目を背けている」という理屈は、そう間違っていない気がする。

今さら全員PCR を行ったところで、出費がかさんで現場が混乱するだけではあるんだけれど、 誰かがこういう、身も蓋もない正論を提案しないと、今の「空気」は吹き飛ばない。

「全員PCRすべきだ。与党は現実に目を背けているが、それは誰の判断で、 誰の責任においてそうしているのか」なんて、 野党の人たちにはやってほしいなと思う。もちろんその提案は却下されるのだろうけれど、 ここで誰かに「私の責任において全て行う」なんて言挙げしてもらえれば、それが前例になって、 「次」の本番にそれが生きると思う。