どこにも道端がない

いろんなものがきちんと整備されてしまった代償として、道端というものが、道路でもなければ誰かの畑や土地でもない、誰のものでもない場所というものが、ずいぶん減ってしまったtような気がする。

茹でガニを売る人

今住んでいる場所は山奥で、どの方向に車を走らせたところで、海に出るまで4時間以上かかるんだけれど、近所の国道で、軽トラックに毛ガニを積んだ人が、道端で茹でガニを売っていた。

茹でガニ屋さんはちょっと奥まった、お世辞にも商売に適した場所には見えないところで店を開いていて、道から入るにはそこは不便だったから、やっぱりお客さんは入っていなかった。

田舎の国道は、そこいら中空き地だらけで、道はどこまでもまっすぐなのに、「道端」に相当する、ちょっとした空き地がすごく少ない。

どこか目当てのお店に入ろうとして、曲がるタイミングを間違えてしまうと、もう引き返せない。道がまっすぐすぎて、車の流れが速いから、そこで止まってUターンできないし、空き地だとか、廃墟みたいなものはたくさんあるくせに、どの場所にもロープが張られていたり、どこの空き地も微妙に所有権を主張して、軒先をちょっと借りて車を切り返す、そんなことがやりにくい。

茹でガニ屋さんが店を開いていたその場所は、たしかに商売をするには都合が悪い場所だったんだけれど、空き地だらけの国道ぞいにあって、車を止めて店を開いて、どこからも文句が来ないような場所というのは、そこぐらいしか残っていなかった。

昔からのお店はどこもお客さんが少なくて、商店街も潰れて久しい。道には車がたくさん走るけれど、みんなそこから20分ぐらいのところにある、東京資本のショッピングモールで買い物を済ませる。空き地はたぶんこれから増えて、道路の流れはもっとよくなって、結果としてたぶん、道端を失ったその場所には、人が住めなくなってしまうんじゃないかと思う。

そこにただいるためのコスト

乗用車の免許を取ったばかりの頃、道路に出て車を走らせたときに、「この車を無料で止められる場所がどこにもない」ことに思い至って、途方に暮れた。

今だったらもちろん、ちょっとした休憩ぐらいだったら、コンビニエンスストアの片隅に車を止めたところで、店の人から怒られることなんてそう滅多にないものなんだ、ということぐらいは分かるんだけれど、初心者の頃は無理だった。運転免許をもらって、乗用車という自由を手にして、代償として、止められない車という、すごく大きな制約に直面して、その時ずいぶん困った。

そこに住むには、土地を買わないといけない。お金を払えばそれでいいかといえば、土地を一度持ってしまうと、ずっと税金を納めないといけないし、その上に住宅を建てたら、また税金を払わないといけない。一度家を買ったら、今度は家という制約が覆い被さって、持っている以上は責任を取らないといけないし、それを売ったら売ったで、またいろんな責任が発生する。

こんな制約の逃げ道として、「トレーラーハウスを購入する」というやりかたがあって、法律的にどこまで正しいのかは分からないけれど、トレーラーハウスは家じゃないから、住宅としての税金がかからないし、エンジンを積んでいないから、乗用車としての税金もかからないらしい。キャンピングカーだとかトレーラーハウスで暮らすなら、だから車をそこに置いておくための土地さえあれば、いろんな制約からある程度自由な暮らしができるんだという。

「ただそこにいるためのコスト」というものが、日本はずいぶん高くついて、制度がきちんとすればするほど、そこにちょっと止まるための道端みたいな場所が減っていく。何か小さな商売をはじめようとか、今までになかった何かを試してみようなんて考えたときに、それがしばしば障壁になる。

言葉の道端

本を出版する機会が得られて、たとえば「肺炎の患者さんは発熱して咳が出る」みたいな言葉をどうすればいいのか、ずいぶん困った。

肺炎というのはそもそもそんな病気だから、誰が書いたって同じような表現にしかならないはずなのに、エビデンスの時代、あらゆる言葉には根拠が必要で、誰が最初にその表現を使ったのか、その言葉を用いるとして、じゃあ誰に、どんな形で筋を通せばいいのか、分からなかった。

あの本は、自分で作った「診断チャート」と、そこから導かれた各疾患の簡単な解説部分とに大きく分かれているのだけれど、前例のない診断チャートは、自分の言葉で簡単に書けた。「当然のこと」をまとめればいいはずの疾患解説部分は、それなのに、「当然」である以上、どう表現したところでその表現には前任者がいて、自分の言葉で「ちょっと書く」ことができなくて、大変だった。

エビデンスの時代にあって、何かの研究会だとか、勉強会に所属していることの意味というのは、たぶんますます大きくなる。それは新しい知識が入ってくるというだけでなくて、そこにいることで、そこで交わされている言葉の所有者に出会うことができて、使える言葉だとか、表現の幅が広くなるということが、何か自分の考えかたを発信するときに、とても大きなメリットになる。

いくつかの分野をまたいだ小さな本、今回自分が出した本というのは、道端で茹でガニを売るのにどこか似ていて、「表現の道端」みたいなのを探した結果として、言葉をどう選んでいいのか悩んだ場所というものが、何カ所も入っている。

道端があったほうがいいと思う

今はたとえば、amazon の一部には「道端」がある。

暗い部屋 という、出版社から販売されるはずだった小説が何かの事情で出版されなくなってしまって、今度はそれを、PC上で読める小説として、amazon を通じて販売しよう という試みが行われている。電子出版のもたらす未来というのも、たぶんそうした道端的な出版がやりやすくなる世界なのだろうし、道端というにはあまりにも広大だけれど、毎年のコミックマーケットみたいな場所も、きちんとした出版業界とはちょっと外れた、そういう場所なんだろうと思う。

いろんなところに「道端」を、何に使ってもいい場所で、できれば人の流れに面した場所を、ちょっとした空間として開放してほしいなと思う。国内からは、そうした道端がだんだんと失われていく一方で、amazon がそれを用意してくれたりだとか、GoogleTwitter がそれを用意してくれたりだとか、道端が全部外資になってしまうのは、やっぱり寂しい。