ネットワーク依存性と老化の関係

高齢の患者さんというのは自立が難しくて、 行政であったり医療者であったり、もちろん患者さんを取り巻く家族であったり、 様々な人を結ぶネットワークの「ノード」として、その存在を保っている。

「死に筋」と「生き筋」

たとえば昨日まで元気だった90歳の高齢者が、転んで上腕骨を骨折したときなんかは、 その患者さんはすでに「死に筋」に乗っかっている。

入院する。かなり高い確率で痴呆が進行して、点滴もままならなくなる。 トイレも自分で行けなくなるし、筋力の低下は一気に進む。食事もとれなくなる。 骨折で患者さん亡くすわけにいかないから経管栄養始めて、たいていむせこんで、 肺炎をおこす。ドロドロになって、最悪亡くなるし、かなり高い確率で寝たきりになる。

「家族」であった患者さんは、退院が見える頃には親族同士で押し付け合いになる「荷物」 となって、「悪くなったのは病院のせい」とばかりに親族が団結して、 今度は病院と過程での押し付けあい。

いずれにしても、その患者さんの「生」というものは、骨折を生じた時点で 事実上終わってしまうことがあって、最初の時点で「死に筋」を視覚化しておかないと、 あとから大変。

ずっと悪い経過の人、自宅で何年も寝たきりで、家族の方ががんばって介護しているような 人というのは、「生き筋」に依存することで生きている。

親族だからとか、家族だからとか。それが常識になっている人にとっては大切であっても、 そうでない人、あるいは「気がついた」人にとっては、 いつ捨ててもいいようなものが「生き筋」を保つ。

入院したとき、「この人はまず助かりません」なんて厳しすぎる話をしてしまうと、 生き筋を維持していた人の心を折ってしまう。

入院期間が長引いて、それが2 週間を越えた頃には、自宅の空気が変わる。 それは汗がしみたシーツのにおいであったり、あるいは糞尿がついたオムツのにおいであったり。 患者さんが病院に入院してしばらくして、家族の方が「空気の変化」に気がついてしまうと、 その人を再び引き取る気力が消失する。

「なるべく長い間入院させて下さい」

ご家族がこんな話を切り出してきたときには、もうその患者さんの生き筋は切れていて、 あとは病院が落ち着き先を探すしかなくて、次に悪くなって入院するときは、 一生入院させようとする家族と、何とかして入院をブロックしようとする医者と、押し付けあい。

こんな患者さんに病状説明するときも、その人の生き筋を切らないように、 それを維持している家族の気力を何とかつなぎ止めるように、結構苦労する。

「筋」の視覚化、病状説明という行為は、患者さんを取り巻く家族を 「医者が演じる神様ごっこ」の共犯者に引きずり込もうとする試み。

昔はこんなことは隠しておいて、「やれるだけやります」の一言で済んだのだけど。

ネットワークに依存しない人

若い患者さんは、若いというだけで価値。「筋」なんてものは関係なく、 神様を演じる必要もなく、ひたすら全力。

どんなに重症であっても、見ただけで「これは助からないよね」なんて患者さんであっても、 ご家族には「厳しいけれど頑張ります」以外のコメントは許されないし、実際問題頑張るしかなくて。

「奇跡は起きないから奇跡って言うんですよ」なんて、冷静な他科の意見はとりあえず無視して、 人工呼吸器、人工心肺、もう体中管だらけにして、それでも最後は「やっぱり神様なんていなかったね」 なんて結末になることしばしば。

ネットワークを無視していいなら、やるべきことは物量の投入と、マンパワーの確保とが全て。 自分の頭に自信がないなら、頭がいい上司を引っ張ってくればいいだけのこと。大変だけれど、 全力出せばいいだけだから、ある意味簡単。

ネットワークと老化の関係

老化というのは、その人のアーキテクトを、ネットワークに開示していく過程に似ている。

ゴルゴ13は漫画だけれど、主人公であるゴルゴは絶対に失敗しない。 ゴルゴ13は、ゴルゴを主人公とした物語というよりは、「ゴルゴ13というルール」を 取り巻く人々の物語。

誰かが追い詰められたり、どうしても復讐を考えざるを得ない状況に追い込まれて、 「ゴルゴ13」というルールを発動する。射殺される側は何とかして ルールを出し抜こうとしてあがくけれど、ゴルゴ13は失敗しない、 あるいは文脈上失敗を許されていないから、最後は射殺されておしまい。

主人公は完璧すぎて、また物語の舞台である社会の裏ではその存在が知られすぎていて、 もはや射殺を失敗することでしか、自分の存在を表現できなくて。主人公に失敗は 許されないし、失敗すれば物語が終わってしまう。ゴルゴは人物として完璧でありながら、 物語の中ではすでに主人公としての自由を失っている。

blog みたいな日記メディアでは、そのサイトが大手になっていくに従って、 個人の日記がニュースのフィルタみたいな存在に変化する。

大手になって、読者が増えると、管理人は読者を裏切れない。 大手なりのリアクションが求められて、たぶん読者も「いつもの切り口」を求めるから、 サイト管理人の振舞いは固定化していく。

管理人の考えかたや立ち位置はネットワークに遍在するインフラとなって、 サイト管理人の言動には、いつのまにか「責任」みたいな制限が課せられる。

サイトが大きくなって、ネット社会での発言力がだんだんと大きくなるに従って、 その人の自由度は減っていき、その人のアーキテクトや、作り出したニッチというものは、 他の人によって置換可能なものへと変貌してしまう。

オープンソースは人を幸せにするのか?

若い患者さんが持っているマンパワーの吸引力、「若さという価値」みたいなものというのは、 要するに可能性の力。隠すことで得た力。

若い人達は、高齢者に比べていろんなものを隠しているから、 それだけ多くの力を引っ張れる。

その人が致命的な病気を脱出したからといって、そのひとが大きな仕事を成し遂げたり、 あるいは治ることそれ自体がその人を幸福にするのかどうかすら分からない。 それでも誰にも分からないからこそ、その可能性が価値を生んで、 そこに大量の資本を突っ込むことを誰もとがめない。

オープンソース化。

その人が持っている資産をどんどん公開、共有して、みんなでもっと大きな「何か」を作りましょう なんてやりかたは面白くて、実際すばらしい成果をあげているけれど、 あのやりかたというのは同時に、オープンソースにかかわった人の「老成」を早めてしまう ことはないのだろうか?

物理世界と電脳世界との境界はだんだんと薄くなってきて、実際問題、 自己の資産のほとんどを、ネットに遍在させて、本人がそこにいなくても、 「あの人ならこんなとき、こう返すよね」なんて、人格が一人歩きしている人だって多いはず。

ネット社会で先端を突っ走る人達は、たぶん今40代半ば。 そんな人達がいろんなものをオープンにしていく中で、 自分達のアーキテクトが既知のものとして共有されてしまったとき、 第一世代の人達は、そこから自己を再起動することはできるのだろうか?

「全てをオープンにした先にある幸福」を提示することは、ある意味 オープンソースにかかわる人達の義務だと思う。

それはきっと、今までの幸福論文脈の延長線上にはない価値観で、 その人がどれだけ「俺は幸福だよ」なんて発信を続けたところで、 「幸福だと叫ぶこと」がまたその人の機能として既知のものになってしまって、 上手くいかない気がする。

今すでに高齢者になっていて、有名なblog を書いている人達というのは、 恐らくは「隠すこと」の力に自覚的で、みんな自分達の実体を あまり表に出していない。

そろそろ中年にさしかかるような人達、ネット世界と実世界との 境界を限りなく薄くする方向で働いて、オープンソース運動なんかを 駆動した原動力になったような人達が自らの存在を結晶化した先、 その人達がどんな幸福感を提案できるのか、相当興味があったりする。

  • 人がアウトプットできるものには限りがあるのか、それとも十分なインプットさえあれば、 その人は無限に何かを作り出せるものなのか
  • ネットワークに遍在する自己と向きあったとき、その人はネット自己を捨てることを選ぶのか、 それとも実世界での自己を「消して」しまうのか

「終わらない自己」が価値を失う近未来、サイバーパンクの問題提起に 実世界が追いついたとき、第一世代の人達は、どんな解答を出すのだろう?