動物を動かすスクリプトと意識

犬の訓練士を養成する学校では、「動作をどうやって分解するのか」 を学ぶのだそうだ。

犬に「遠くにあるダンベルをくわえて持ってくる」という動作を教えるときには、 たとえば以下のように動作を分解して、これを順番に教え、統合していく。

  1. ダンベルのほうに注意を向ける
  2. ダンベルのほうに歩く
  3. ダンベルに口をつける
  4. 咥えて持ち上げる
  5. 咥えたものを持ってくる
  6. すべてを統合して、もってきたダンベルを飼い主に渡す

「教える」やりかたは2種類。

犬に自由に振るわませて、ランダムな動作の中で、たまたま飼い主の 想定していた動作をしたときにだけほめるやりかたと、ごほうびで誘導したり、 壁や障害物などを用いて、飼い主が想定した動作をせざるを得ない状況を作り出して、 その障害をクリアした後でほめるやりかたと。

「伏せ」を教えるときなんかだと、犬が伏せるのをじっと待っていて、伏せたらほめる方法と、 座布団とか、あるいは飼い主の膝を使ってトンネルを作って、 トンネルの先にある「おやつ」を食べるには 伏せた姿勢をとらざるを得なくして、伏せたらほめるやりかたと。

命令を聞いて、それに対応した動作を自分で発見させるやりかたは、時間がかかるけれど定着がいい。 「ほめられざるを得ない状況」に犬を追い込むやりかたは、動作を覚えるのは早いけれど、 それを忘れるのも速いらしい。

犬を動かすスクリプト

「ほめる教えかた」を実践している人達は、犬は報酬に忠実な動作を行うだけの 生き物で、飼い主が好きだとか、忠誠心が高いとか、そんな「犬の意識」みたいなものは、 飼い主が、自分の思いを犬に投影しているだけなのだと考える。

今習っている訓練士の方も、犬には恐らく道徳とか、意識なんてものは存在していなくて、 だからこそ「叱る」という動作には何の意味もないと考えているらしい。

意識とか、道徳に訴えるようなやりかたをしなくても、 人間が「こうしてほしい」という動作を犬に分かるように分解して、 それを教えるやりかたさえ提案できるなら、 「ほめる」を重ねるだけで、相当に複雑な行動が教え込めるらしい。

訓練士の学校では、たとえば「ダンベルを持ってくる」とか「トイレを学習させる」とかの 課題を出されて、その動作を実現するための「スクリプト」を書かされるのだそうだ。

教官はそれを採点して、「この部分が飛躍しすぎ」とか、「これでは動作を統合できない」とか、 提出されたスクリプトが本当に「動く」ものなのかどうかを採点する。 プログラムみたいだけれど、訓練士の学校でも、そのまんまスクリプトとか プロンプトとか呼ばれているらしい。

この「ほめるスクリプト」というのは、だいたいどんな動物でも適用可能なやりかたで、 裏を返せばこれを使わないのは人間ぐらいなのだとか。

犬に意識はあるのか?

獣医さんに聞いてみた。 少なくとも種族ごとの「生まれつきの個性」みたいなものはあるらしい。

  • 「ものをくわえる」という動作は洋犬特有のもので、むこうの犬なら教えなくても 「くわえて持ってくる」ができるらしいけれど、和犬だと教えないと無理だとか
  • ゴールデンレトリバーは「水に飛び込む」性質が最初から備わっていて、 台風で増水した川に飛び込んだレトリバーが動物病院に担ぎ込まれること、結構多いらしい

人懐っこさとか、暴れん坊とか、そんな性質もまた、育った環境が決める要因以外に、 その犬がもともと持っている性質というのがあって、「DNA が決める性格」みたいな 要因があるらしい。

人間の言葉を「犬の動作スクリプト」に翻訳する訓練士の人は、「犬の意識」なんてものは 存在しないか、少なくとも必要ないものと考えていて、 犬を「報酬-動作系」で動作する一種の機械のようなとらえかたをすることで、 結果として「ほめて教える」という、理想的な教えかたを編み出している。

獣医さんの視点から見ると、やはり犬にももともとの性質というものがあって、 それを意識というのかどうかは別として、生まれた後に教育を受けた要因以外に、 もともと犬に備わっている「何か」があるらしい。

犬に教える立場と、犬を診察する立場。

意識というものを、人の言葉を動作に翻訳するための部品として考える 立場と、心の実体として動作する何かとして考える立場と。

立ち位置が違うから、議論にはならないのだけれど、 「人の言葉」という、犬の存在とは無関係なものがかかわることで、 意識に対する考えかたが異なってくる。

午後の動物病院。内科の医者と、訓練士の方と、獣医師さんとで、うちの犬の教育。

立場が異なる人間同士、犬をはさんで会話するのは面白い。

自然発生した言語

人間が持つ「言語」という機能は、基本部分は生まれつき備わっていて、 他者とのコミュニケーションを通じて自然発生することができるらしい。

1979 年のニカラグアでは、学校に集められた聾唖の子供達の間に「ニカラグア手話」と呼ばれる 言語が自然発生したのだという。

当時の学校には、聾唖の子供を教育できる教師がいなくて、 「言葉というものがある」ことを教えることが不可能だったにもかかわらず、 子供達はお互いに身振り手振りを交換し合うことで「言語」を作り出し、 意思疎通を図ることに成功した。

ニカラグア手話を学んだ子供達は、お互いにコミュニケーションを取ることで、 生まれてはじめて「言葉で考える」ことを覚えた。

ニカラグア手話には、無から言語を作った第一世代と、最初から学習可能な言語があって、 それを学んだ子供達が洗練した第二世代とがある。統一された文法が作られて、 豊かな表現が可能になって、物語を伝えるだけの能力を持つのは第二世代のほうで、 第一世代の人達は、新世代の言葉を理解するのに苦労するのだともいう。

言葉が発達した社会に生きても、コミュニケーションが不足すると、意識は暗くなってしまう。

以下うろ覚え(昔家庭医学の雑誌のコラムで読んだ話だけれど、 ネットを調べても何も引っかかりませんでした。 もしかしたら100%妄想かもしれません)。

大昔、農家の大家族では、末のほうの子供には名前が与えられなかったのだという。 そんな子供達は「オイ」とだけ呼ばれて、「オイ、起きろ」で目を覚まして、 一日中畑で働いて、「オイ、そろそろ寝るぞ」と声をかけられたらみんなと眠る。

いじめられているとか、疎外されているとかではなくて、そもそも娯楽とか刺激が ほとんどない時代で、おしゃべりをする必要があるのは、跡取の問題が絡む 上の方だけだったから、1 年を通してほとんど話しかけられない家族というのが普通にいたらしい。

名前がないからみんな「オイ」とだけ呼ばれて、ロボットみたいな暮らしをしていた そんな人達に「オイ」という病名がつけられた。

「オイ」の人達は、会話自体は可能であったにもかかわらず、何かやりたいことがあるとか、 楽しいこととか、つらいことは何か? といった疑問にはほとんど答えられなかったのだという。

「テレビを見た。人が動いていた」なんて「オイ」の人の発言を読んだ記憶があるから、 テレビが出現した直後ぐらいまで、日本にもこんな人が存在していたはず。

言葉と意識

意識というのはきっと、言語の発達と不可分で、少なくとも人間が感覚する意識というのは、 コミュニティから自然発生して進化した、言語-動作の巨大なライブラリに他ならないのだと思う。

言語という機能は、単独で学習することも可能だけれど、それを洗練するための コミュニケーションが存在しないと、そもそも意識が発達しないか、 あるいは生活に必要ないものになってしまう。

犬という動物を、人間-犬という異種族の関係から見ていくと、意識は存在しないか、 少なくともなくても困らないものになるけれど、犬族という同族同士の関係から 見ていくと、たぶん意識の問題は避けて通れない。

人の振舞いを記述する、言語のスーパーセットたる何かを持つ存在がいたとして、 そこから見おろせば、あるいは人も犬も同じようなもので、 人間にだって意識を持つ必然性が見当たらないのかもしれない。

飼い主たる自分達が取るべき立場はといえば、もちろん犬の意識は「ある」と考える。

うちに来てから半年、もうすべての生活が犬中心に回っていて、 家の中に犬がいるというよりも、犬小屋の中に人が住まわせてもらっている状態。

すっかり親馬鹿をしているけれど、本当に見ていて飽きない生き物。