「好き」は誰のものか

善良さを担保するコスト

NHK の番組で「わらじ医者」を名乗る医師の特集が組まれていた。

いくつかの施設の院長を歴任した老医師が、そのうちコミュニケーションの重要さに 気がついて、高齢者の電話相談をはじめたり、場合によっては自らで向いて、 その患者さんの話を聞きにいったり。

医師に必要なのは良心だとか、大切なのはコミュニケーションだとか。 その医師の「善良さ」こそがわらじ医者を駆動していた。

善良であるためにはコストがかかる。その先生が現在「善良」でいられるのは、 いくつかの病院を成功させてきて、「安全圏」に身をおけたからこそなのだけれど、 そんな部分はスルーされていた。

「わらじ医者」の先生は、きっと若い頃に頑張った。成功した。今は半ば引退して時間がある。 ボランティア同然の、絶対に対価につながらない診療を続けて、今は充実している。 このあたりは客観的な事実。

問題なのは、こんな振る舞いをつないでいる心のありかた。

振る舞いと振る舞いとをつないでいるのは、果たして良心であったり道徳心であったり、 そんな美しい何かなのか、それともそれは営業用の詭弁であって、 単純な経済的適応を続けてきた結果、「良心」という言葉で説明可能な、 一連の行動につながったにすぎないのか。

動作の解釈は、誰かの一連の動作を観測した、観察者の心の中に発生する。 観察する人の数だけ、説明は存在するけれど、 誰にでも通用する真実というものは、そこに存在しない。

行動を行った本人ですら、他の観察者同様、自らの行動を観測した、観察者の一人にしかすぎない。 本人であることそれ自体は、その動作説明の真実性を、何ら担保してくれない。

みんな良心が大好き

プロジェクトX」みたいな思考停止肯定番組を見るのが好き。

技術者がどうしようもない状況に追い込まれて、超人的な力を発揮して、 問題を強引に解決する物語。

本来問題にしなくてはいけないのは、技術者が超人的な力を発揮せざるを得なかった状況のこと。 それはたいてい、偉い人達の舵取りミスであったり、マーケットの変化が読めないことであったり、 もしかしたら単純に、絶望的な人員不足にしかすぎなかったり。

「何故そうなったのか」よりも、どういうわけだか「どうやって乗り越えたのか」のほうが面白い。 「どうやって」の部分には、たいていの場合、情熱だとか、技術者の誇りだとか、思考停止ワードが並ぶ。

情熱だとかプライドといった言葉には、みんな異様に親和性が高い。自分もプライド大好き。

医師もまた、しばしば情熱文脈で語られるお仕事。

実際問題、自らの振る舞いを良心で説明する医師は多いし、良心を語らなくても、 あるいは良心に敵意を表明していても、良心という言葉の範疇で振舞う医師はものすごく多い。

医師が持つ、たぶん共通して持つある種の「善良さ」というものは、 我々がたぶん、医療の業界に対して、長年独占体制を敷いてきたからこそ生まれたものなんだと思う。

見た目の善良さというものは、必ずしも中身の善良さを担保しない。 「中の人」自ら「自分は善良だよ」と表明したところで、その善良さを担保するシステムが邪悪なら、 やはりその人は邪悪さから逃れられない。

医療業界は、全国民から毎月 5 万円、半ば強制的に徴収しているからこそ、 15 兆円なんて莫大な市場を独占できている。善良さを担保するには、 やっぱりお金がかかる。医師はたぶん、NHKの欺瞞を笑えない。

「好き」を貫くこと

これからの時代は、「好き」を貫くことがとても大切になって来るのだそうだ。

恐らくは残念ながら、「好き」を貫いた先に必ずしも成功はないだろうし、 そもそも自分は本当にそれが「好き」なのか、恐らくはほとんどの人が決められない。

「好き」の所有権はもちろん自分自身にあるはずなのに、他者からの承認抜きには自分の「好き」を 信用できなかったり、自らの「好き」の強度に自信が持てなかったり。

結果を伴わない「好き」には意味がない。

「好き」という感情もまた、ある行動と、その行動から導かれた結果とをつなぐ動作説明。 成果につながらない過程には意味がないし、だからこそ、 まだ結果につながらない何かに対して「好き」を 表明する行為には、恐らくは意味がない。

好きを貫いて成功した人達は、ある振る舞いを行って、それが結果として 「成功」と定義される成果を生んで、観測された2つの行動を結ぶキーワードとして、 「好き」を選択した。

観測者が変われば、動作説明もまた変わる。「好きを貫いたからこそ成功した」という説もまた、 本来は観測者の数だけ発生する多様な仮説の、ひとつの可能性にしかすぎない。

真実は動作の中に発生する

心カテを習った師匠の口癖は、「いやならすぐ辞めるよ」だった。

いつも「辞めるよ」と言いながら、いつも病院にいて、夜中まで仕事をして、 カテ室では常に、誰よりも頼りにされていた。 いつも楽しそうだったし、だからこそみんなついていった。

「楽しいよ」とはいわれなかった気がする。

言葉の真実性というものはたぶん、言葉でなくて行動をおこすか、 少なくとも行動を宣言しないと、その強度を担保できない。

「私は幸せだ」とか、「私はこれが好きだ」という言葉は、停止した言葉。 停止という状態は不安定で、それはしばしば他人の定義を受け入れて、 「好き」の運用を許してしまう。

大昔僻地に飛ばされたとき、給与が当初の 6 割ぐらいしかもらえなかったことがある。 文句いったら、「先生の仕事は、ボランティアで、好きでやってるんでしょう ? 」なんて。

「好き」を他人に定義されるのは不愉快だけれど、「好きの運用」というのはしばしば、 もっと分かりにくい形で行われているような気がする。

生存戦略としての「ほめること」

「好きを貫く生きかた」というのは、欺瞞なくそれを全うしようと思ったならば、 本来ものすごく厳しい生きかた。そもそもがよほどの資本を持っていなければ好きを全うすることなんて できないし、貫いた「好き」が予定した成果に到達できなかったとき、 それでもなお、その人がそれを「好きだ」と言えるのか、そのときになってみないと絶対分からない。

「みんなもっといろんな人をほめようよ」なんて言葉に多くの賛同が集まった。 好きを貫く環境を作るには、「好き」を強化する因子としての賞賛は欠かせない。

ところが「すごい誰かをほめること」、その行為自体もまた、動作である以上、 必ず何らかの成果に結びついて、誰かの観測を受ける。

賞賛の純粋性というものは、たぶん案外疑わしい。

エンタの神様」みたいな若手芸人を使い捨てる番組見てると、 面白い芸人が「成功する」ことは、要するに芸を見せるの止めて、 バラエティー番組の方向に「卒業」して行くことなのだな、と思う。

人を笑わせることが「芸」ならば、芸それ自体を目標とする芸人は、 恐らく番組の中で観客を笑わせつづけて、そのうち飽きられて、使い捨てられる。 その人達はきっと、好きを貫いたけれど、それは成果に結びつかない。

バラエティー番組で成功した芸人の中には、もしかしたら「芸」を目標でなくて手段にする人達がいる。 その人達は、最初は「芸」で売り出して、そのうちお笑い番組を卒業して、 バラエティ番組でレポーターをしていたり、ひな壇の後ろで笑っていたり。

どんなに優れたお笑い芸人であっても、「飽き」からは逃れられないし、 才能は有限で、アイデアは枯渇する。ロケットが大気圏脱出を試みるようなイメージ。 重力圏越えて「衛星」になれる人と、大気圏で炎を見せつづけて、 そのうち燃料尽きて落ちていく人と。

恐らくは生存戦略として、他人をほめるという構図が作れる気がする。

たとえば才能がそれほどない芸人がいたとして、もっと才能豊かな競合者を 「お前面白いよ、才能あるよ、かなわないよ」なんて賞賛することで、その人達を 「芸」に止める一方、自分自身はその先、バラエティー番組を目指す。

競合者を賞賛した芸人が、「芸」のほうが上等で、バラエティーは 下等だと相手を信じさせることができたなら、 「好きの運用」は成功する。その人よりも才能豊かな芸人は、もしかしたら好きを貫いて、 才能が枯渇して落ちていくかもしれない。

この人はもしかしたら、本心から才能のある同僚のことを賞賛していて、 後日バラエティ番組で成功して、「みんなすごい人にはすごいと言おうよ。オープンマインドだよ」なんて 成功哲学を語るかもしれないし、あるいはその人は本心から邪悪な人で、競合者を 賞賛することで蹴落としたけれど、やっぱり自伝には「オープンマインドだよ」なんて書くかもしれない。

いずれにしても観測されるのは、その芸人が競合者を賞賛して、 賞賛した当の本人が成功したという事実だけ。 本人がどう思っていようが、その解釈は無数だし、真実は観測者の数だけ存在する。

勤務医医師会のこと

物語の主人公がどう考えようが、読者が観測する事実は変わらない。

中の人が語る「本当の話」というのは、実は観測可能な事実から導かれる、 多様な解釈仮説のひとつにしかすぎない。

振る舞いはいかようにでも解釈できるし、事実と結果が観測可能なものである以上、 「本当にそんなことは思っていない」という本人の弁明もまた、 観測不可能であるがゆえに、説得力を持つことはない。

勤務医医師会を立ち上げようとしている先生がたは、 みんなベテランで、第一線に立ちつづけて、「好き」を貫いて、 あるいは「好き」という言葉に代表される何かを貫いて、成功してきた人達。

成功したベテランの口からしばしば漏れる思考停止ワード、 人情とか道徳とか情熱とかボランティア精神とか、 腐りかけた方法論。

好きを貫いて成功して来た人は、その成功体験を語ることで、好きを運用する側に廻ろうとする。

大志を抱いて、好きを貫いて成功した人達は、だからこそ「こうしようよ」を表明するし、 まだ成功に縁のない若手はたぶん、ベテランに自らの「好き」を運用されてしまう。

そのベテランが自らの「好き」を貫いて成功したこと、それ自体は間違いのない事実。 事実は真実だけれど、その解釈についてはたぶん、観測者が違えば真実は異なってくる。

「自分がこう思って行動したから成功した」というベテランの言葉は、医師会みたいな組織の中では、 恐らくは誰も逆らえないけれど、その言葉それ自体もまた、本当は欺瞞から自由になれない。

事実を解釈する権利というのは、恐らくはそれを観測した全ての人間が持つ、平等な権利であって 「中の人」ですらもまた、平等な誰かと同様の権利しか持ち得ないのだと思う。

昔のお医者は良心を持っていた。良心を発揮できる環境にいた。自らおかれた 「良かった昔」の検証もしないで、「俺様とっても良心的」で思考停止したからこそ、今こうなった。

「みんなまとまろうよ。お金ちょうだい、政府の偉い人」という声を表明するだけでは、 たぶんまだまだ思考が足りなくて、時計の針は戻らない。

何の声もかからなかった外野のやっかみなんだけど。