「生きてきた私」を言祝ぐ技術

  • 極端に幸福な、あるいは不幸な人生を送った人には「系の中で、あなたのニッチはユニークでした。 あなたが自分の人生をどう感じたのかは、私の知ったことではありませんが」
  • ほどほどの人生を送った人には「あなたの代わりはいくらでもいますから、世の中何も変わりません。 安心して下さい。そんな絶望は、周囲のみんなに共有されているものですから」

神様が科学的な存在ならば、亡くなる人に神様が語る言葉は、たぶんこんなかんじ。

科学技術は、人がより楽になるために発達してきた。

より長く生きるため。苦痛を感じないため。 いろんな技術が発達したけれど、楽になるはずの技術が実際にやってきたのは、 「解決」でなくて「先送り」。

帳尻合わせは最後の最後でやってきて、亡くなる時にはもう滅茶苦茶。

その2 週間をあきらめられますか?

97歳、寝たきり10年目。家族が最後に声を聞いたのは、いまからもう5年も前の話。

こんな方が肺炎になっても、家族がそう望むのであれば、病院は呼吸器をつけるし、 透析だって人工心肺だって、言わないだけで、要請があればやらざるを得ない。 「年寄りは透析受けて死ぬもんだ」なんて認識が共有されている地域というのも まだまだあって、そんなところで「医療経済的に正しい医療」なんてやったら大変。

科学というのは「死んだらどうなる?」という疑問には答えてくれなくて、 みんな知らないし、知らないことは怖いから、科学の力で先送り。

先送りするにもお金が要って、それは後になるほどかさむから、 終末期医療の最後の2週間というのは、それはもう相当なお金がかかる。

たぶん若い人の高度医療のお金が入っているから高齢者医療が全てではないけれど、 「最後の2週間」に費やされる医療費というのは、総医療費の10%近くになるらしい。

人生70年、2週間という期間は誤差範囲で、終末期の2週間に意識を保てる人なんて 多くないから、この時間というのは、そのほとんどが本人のためではなくて、残される人のための2週間。

実行したら問題山積みだろうけれど、 「2週間をあきらめる」合意ができるなら、医療費の問題というのは、そうとう楽になる。

「しんだらそこはてんごくだよ」

何かをあきらめなければいけないときの理不尽な思いというのは、 科学では解消できない。

「構造」は人格を持たないから、理不尽な思いを受け止めてくれない。 科学的な思考を詰めて、出てきた答えが「構造」であるうちは誰も納得してくれなくて、 科学の力で犯人探しが行われ、誰か「人」が腹を切って、結局誰も幸せになれない。

「物事全てには原因があって、勉強すれば、気合入れればそれはいつか解決できるよ」 という科学の考えかたというのは、亡くなった人と、その周囲にいた人達全てを巻き込んで、 「努力不足の落伍者」というレッテルを貼る。

理不尽さの引き受け手としては、科学という実装は、相当にセンスが悪い。

宗教というのは、そのへん優秀。

「死んだらそこは天国だよ。人生失敗しても、天国にいく途中で挽回できるよ」

大雑把にこんな考えかたを無批判に受け入れることができるなら、 それを信じる人達は、とりあえず幸せになれる。

「生きてきたその人を言祝ぐ道具」としての宗教の優秀性と、科学の使えなさ加減。 科学と宗教というのは、恐らくは対立する考えかたなんかではなくて、 そもそも存在するレイヤが異なるんだと思う。

「私」というBIOS 「OS 」としての宗教

脳というのは巨大なメモリデバイスにしかすぎないし、「私」とか「意識」なんていうものは、 それがあると錯覚されているだけの、実体を持たない考えかたのはずなんだけれど、 それでもやっぱり「私」ぬきには思考するのは難しい。

それが仮想であれ実体であれ、「思考する主体」がないと認識ができないし、 体験の記述ができない。

意識なんて幻想、そんな考えかたが「科学的に」証明されたのだとしても、 科学もまた、記述を通じた思考技法である以上、解釈の主観性から自由ではいられない。

以下妄想。

この世に生まれて脳が目覚めて、たぶん最初にロードされるのが、「私」という考えかた。 人間なんかでも、犬なんかでもそのあたり一緒。

少しだけ大きくなって、「思考する主体」を通じて世界を認識していく中で、 「私」はたぶん、何らかの宗教を受け入れる。

「痛い思いをした」であるとか、 あるいは「ほめられた」みたいな、生まれてすぐには理解できない体験。乏しい経験の中で、 そうした理不尽さを理解したり、あるいは思いをぶつける対象として出来上がってくる「何か」 というのは、たぶん群れや集団といった仲間どうしでは同じような成り立ちかたをして、 群れ全体の分化として共有される。

自然発生的に共有された文化こそが宗教のはじまり。 宗教は、「悪いことをしても神様が見ているよ」とか、 何かの考えかたを無批判に受け入れることと引き換えに、 世の中の理不尽さのほとんどを、矛盾なく説明可能なものにしてくれる。

科学というのは、世界に起きた現象を理解するための言語。 「無批判に受け入れる前提」なんてものが必要ない代わり、 分からない問題に関しては、先送りする以外の力を持たない。

「理系」の人達というのは宗教を信じていないと言う人が多くて、 「亡くなる方の家族」として接した時は、たいていの場合、とても物分りがいい。

なくなる患者さんに対する彼らの態度というのは、それでもやはり「科学的」な ものからは遠くて、「レントゲンが大丈夫なんだから、痛くなんかないはずだ」なんて、 痛がる患者さんをしかりつけたりして。こんな人達はたぶん、 宗教を信じていないのではなくて、「理系はこんなとき、物分りがいいものだ」みたいな 教義を持った何かに縛られていて、無理して自分を抑えこんでいるように見える。

脳の上には、認識の基本となる「私」という考えかたがまずあって、 分からないものをとりあえず分かるものにする「宗教」というレイヤがその上にあって、 宗教というOS上、「科学」というアプリケーションが走っている。

宗教を信じていない人というのは、たぶん無理やりに宗教レイヤを不可視化していて、 その「無理」がいろんなところに出てきている。

極めて厳しい状態の患者さんに「どこまでやるか」を問うたところで、 ほとんどの人は「できるだけのことをして下さい」とか、「いいと思うことをして下さい」とか、 問題丸投げ。本当は、こんな「分からない問題」を解くレイヤとして、誰もが 宗教を持っているはずなのに。

宗教にはもっと頑張ってほしい

たとえばイスラム教の偉い人達は、全員一度はディズニーランドの門をくぐる必要があるし、 仏教の高僧の人たちなんかも、もはやびっくり人間ショーみたいになっている最近のアダルトビデオに 目を通す必要があるのだと思う。

死んだらどうなるのか?

「天国だよ」とか、「輪廻転生するよ」とか、「何十人もの処女がお出迎えだよ」とか。 宗教世界が提案している「天国による救済モデル」というのは、科学がこれだけ発達した現在、 明らかにプランとしての魅力を喪失していて、だれもが伝統宗教を信じられなくなってしまって、 本来あるはずの「宗教レイヤ」が不可視化してしまって、 分からない問題に対して対応できない人が増えている。

宗教の人というのは、やっぱり現在に通じる新しい「天国モデル」を提案できないと嘘だと思う。

夢を現実化するのが科学者の仕事なら、その上をいく夢をみるのは宗教家の仕事。 宗教は、とりあえず飲み込んでもらった概念を利用して、そこから先に生じることを 矛盾無しに演算できる学問。科学が答えを出せない領域に対しては、未来を夢見る義務があるはず。