謝罪は切り返しの出発点

謝罪というものが、事実と感情とを切り離す道具なのだとしたら、説得という行為は、事実に対してその人が抱いた感情を表明して、生み出された感情と、相手の行動とを接着しようとする試みなんだと思う。

無理矢理の「説得」に対して、素早く「謝罪」を行うことで、問題は初めて、事実だけを扱える。謝罪なしに事実を論じると、恐らくはもっとこじれる。

事実と感情が手をつなぐ

麻薬系鎮痛薬の中毒になった人が、救急外来にはたまに来る。

何かの病気を訴えて、ものすごく痛がって、診断書は持ってるなんて、文字のかすれた、診断書のコピーを見せる。大学名のところはにじんで読めなかったりする。こういう人には、麻薬の処方を行ってはいけないとされているんだけれど、断るのはそれなりに難しい。たとえばこのとき、患者さんが持ってきた診断書を「偽物だろう」なんて断じるのは最悪で、泥沼になる。

患者さん本人は、「痛い」といって病院に来ている。診断書が偽物であることと、本人の痛みとは関係ないし、もしかしたら患者さんは別の病気で本当に痛がっていて、たまたま「いつもの病気だ」と思って、診断書を見せているのかもしれない。「本人が嘘をついて、麻薬をせしめようとしている」のは、いくつもある可能性の一つであって、「偽だろう」という指摘は危ない。

やったことはないんだけれど、「その診断書はどうせ偽物でしょう?」なんてやった日には、大変なことになる。患者さんはたぶん、「俺はそれが本物だと信じてる。お前はそれで、診察もしないで、痛んでいる患者をその程度のことで疑うのか?」とか、外来の主治医をなじる。なじった上で、「謝れよ。お前俺の痛みのことどうでもいいって思ったろ?そうじゃなきゃ痛む患者ほっといて診断書確認するとか、ありえないよな?俺は痛いって言ってるんだよ。まずは謝れよ」って相手を怒鳴る。怒鳴ることで、これは何をしているのかと言えば、医師側の「感情」と「事実」とを、接着することを試みている。

説得は感情と行動の接着

「謝れ!」と言われて、たぶんドツボにはまる医師は、そこではじめて謝罪する。謝罪を表明したところで、恐らく今度は、「じゃあ麻薬くれよ」なんて話になる。

謝るけれど麻薬は出せないなんて切り返そうにも、このときすでに、患者さんは「怒り」という道具を使って、医師側の謝罪表明と、麻薬を処方するという行動とを強力に接着している。処方できないなんて言ったら、たぶん「じゃあ俺を信じてないんじゃないか。謝ってないじゃないか!」って、また怒鳴られる。面と向かって怒鳴られるのはけっこう疲れるし、この段階で、患者さんの怒りと、自らの行動とを分離しようにも、難しい。

ここで謝罪して、麻薬系鎮痛薬を処方してしまうと、今度はたぶん、その医院は「かかりつけ」になる。日本中から痛みを表明する患者さんが集まって、主治医が身動きできなくなった頃、患者さんの側から「えらい人」が出てきて、お金を引っ張る話が切り出されるのだろうと思う。

まず謝罪してから切り返す

こういうときの正解は、主治医の側から「私は無能すぎて、あなたの痛みがどの程度なのか、麻薬を処方するに値するものなのかすら、判定できません」なんて、ひたすら謝り倒すことなんだと思う。患者さんは診断書を掲げるし、診断されてるんだから処方しろって怒鳴るんだけれど、診断書の真偽を議論の俎上に上げると、たぶんその時点で全て持って行かれる。

「謝罪」という行為は、「事実」と「感情」とを切り離す道具なのだと思う。

救急外来に麻薬をもらいに来る人は、恐らくは偽の紹介状と、偽の痛みを携えてやってくる。どちらかが真ならば、普通はかかりつけの病院に相談するだろうし。こういう人たちに、「診断書が偽である」ことを証明できたとしても、「痛みが偽である」ことを証明することは、絶対にできない。痛みは測定できないからこそ、痛みに対してはとにかく謝罪して、紹介状の真偽と、痛みの大きさとを、真っ先に切り離さないといけない。

麻薬をもらいに来る側は、事実と感情とを切り離されると、もう麻薬をもらう大義がなくなってしまうから、これを強引にくっつけようとする。だから怒鳴るんだけれど、この時点ではまだ、「痛みに対する疑念」という医師側の瑕疵が出現していないから、ひたすらに頭を下げ続けていれば、一応なんとかなる。

こういうのはたとえば、患者さんのご家族が、何かこちらの不作為とか、治療の瑕疵、「ここにある擦り傷はなんですか?」とか、「久しぶりに来てみたらおむつが濡れていたんですけれど、この病院は何をしているんですか?」とか、突っ込んで、たとえば入院期間の延長を勝ち取りに来るのを切り返すときにも使えたりもする。

「病院に瑕疵はありません」だとか、「医学的に間違っていない」なんて主治医が表明しても、切り返しにならない。お互いに不満を残すし、この先もちろん、擦り傷がもう一つ増える可能性だってあって、こういうときに、あとが無くなってしまう。

こういうときにもたぶん、突っ込んできたご家族に対しては、「全面的におっしゃるとおりです。そのとおりなのですが、我々の施設では、患者様が満足するようなサービスを提供することは、実際問題不可能です」なんて、まずは事実について、謝罪するのが正解なのだと思う。最初に謝罪を表明した時点で、今度は「不可能であることを求められて、主治医である私は、今それを提供できないことを恐ろしいと感じています。それを分かって下さい」なんて、自分たちの「恐怖」という感情を表明する。恐怖を表明した上で、「満足するような医療を提供できる施設を当たっていただければ、紹介状を書きますから、そういう方向で行きませんか?」なんて、話を切り返す。

やっていることは、これは麻薬中毒の人たちが使っている方法論そのまんまなんだけれど、主治医の側は、家族の指摘を否定していないし、ご家族の側からは、主治医の感情を否定することも、またできない。

突っ込まれて、切り返して、単なる拮抗状態が生じるだけなんだけれど、あとはとにかく患者さんの転機をよくすることに全力を挙げれば問題は前に進むから、主治医の側は、こうした議論で「勝つ」必要は、通常発生しない。

感情を使った交渉の方法

交渉の俎上に「感情」と「事実」という、2つの貨幣を並べて、相手の「行動」獲得を目指す、こういうやりかたを体系化して解説している本というのがどれに相当するのか、よく分からない。

事実と感情とを接着しつつ、相手の自尊心を刺激して、謝罪閾値を引き上げるやりかただとか、逆に怒りにまかせて謝罪を命じて、相手側に「謝罪の引き受け」と「行動」とを同時に呑ませたりだとか、あるいは先に謝罪を表明して、事実と感情とを切り離した上で、事実の真偽を議論の俎上に上げるやりかただとか、明示的に行われることは少ないかもだけれど、日常生活の会話というのは、たいていこんなやりかたをしているのだとも思う。

こういうやりかたは、事実をやりとりする論理スポーツである「ディベート」とも違うし、法律家のやりかたとも違う。心理学の人たちも、あんまりこういうやりかたはしないような気がする。プロのやくざとか、テキ屋の人たちのやりかただけれど、「ヤクザに学ぶ○○」みたいな本には記載が無くて、方法論としては軍事学が少しだけ近い気がする。

政治家の人たちは、本来こういうやりかたのプロフェッショナルでないといけない気がするんだけれど、政治学の本を読んでも、「契約は守るべき」とは書いてあるけれど、「破るのが前提の約束を、どうやったら支持率を下げずに破れるのか」みたいな議論はあんまり書かれていない。

体系化してまとめると、けっこう面白いと思うんだけれど。