文系亡国

何もかも文系が悪い。

技術系はみんな頑張ってる。文系は余計な足を引っ張って、 全てを台無しにする。

医者も理系。みんな一生懸命頑張ってる。

法律家や市民団体は文系の巣窟。連中が、日本の医療を駄目にした。

王監督が退院しない。

プロ野球ファンもそうでない人も、みんな監督の病状を心配している。

全国の消化器外科医も。

腹腔鏡手術というのは、 最近の消化器外科領域の、技術の頂点。

技術を作ったのは、技術者と医師。技術の未来を握っているのは、 退院後の王監督の一言

王監督は文系じゃなくて体育会系だけれど。

対立する文系と理系

文系と理系、2つの学問。

どちらのルールも、「学会でどれだけ多くの支持を集めるか」が 勝利条件になるという点では、全く同じ。

違うのは方法論。

  • 文系は、ある質問に対応した答えを探す
  • 理系は、ある結果を見たとき、結果としてそのような状況を生んだ質問は何なのかを知りたがる

文系の思考回路は演繹的だ。

たぶん、こうだろうという仮定を考えて、人間というあやふやな集団の中から、 仮定に当てはまる人の数を数える。当てはまる人が多ければ、その仮定はそれだけ正しい。 文系にとっては、「正しさ」というのは相対的なものにしかすぎない。

理系は帰納的に思考する。

まずはデータを集めて、そのデータの合理的な解釈を考える。 時々「ずる」をして、まず仮定から入る人がいるけれど、 あれは本来の技術者のやりかたじゃない。

理系の理論は単純だ。「正しい」か「間違っている」か。 例外の多い解釈は、「あまり正しくない」理論ではなく、「間違っている」理論と呼ばれる。 文系じゃないから、そのあたりシビア。

政治が真理をひっくり返している情景、理系でも、最近はなんだかよく見るけど。

理系同士は仲がいい。

たとえば、実験物理屋さんと理論物理屋さんというのは、たいへん仲がいいらしい。

お互いに意志の疎通があって、お互いの進歩が相補的である場合、 理論と実験とはお互い協調して、すばらしく上手くいくらしい。

法律家と医師というのは、とてつもなく仲が悪い。

お互いに意志の疎通はある。法律が変われば、医師はそれに追従する。 なのにお互いに協調は生まれず、仲は一向によくならない。

悪いのは全部文系だ。

世界を信じる際の基礎

「世界が昔からここにある」と証明するのは、実は案外難しい。

理系は調査する。

宇宙が昔からあった証拠。古い化石や、地層の調査。細かい証拠を重ねれば重ねるほど、 理系的には「世界の証拠」はより確かになる。ところが、証拠の「正しさ」に逆比例して、 それはどんどん分かりにくくなる。

文系は物語を語る。

いい文化人というのは、間違っていても分かりやすい説明を作る名人だ。 文系の価値観は、正しさよりも分かりやすさ、浸透しやすさを重視する。

世界の実在を信じる際の基礎を、調査におくのか、あるいは信心におくのか。

語らないデータ自身に語らせるのは理系の得意分野だけれど、 文系は、データなんかなくても、もっと面白い物語を作り出す。

南海にはカーゴ・カルトを信仰する人々がいる。 戦争の間,様々な物品を積んだ飛行機が現れるのを見た彼らは, また同じことが起きて欲しいと考えている。そこで彼らは滑走路のようなものを仕立て上げて, その脇にかがり火を焚き, 木の小屋の中に人を座らせ,頭にはヘッドフォンのような木片と, アンテナのような竹の串を立て ― 要するに彼は管制官なわけだ ― そして飛行機が訪れるのを待ち続けた。 彼らは全てを正しく行っている。 形は完璧だ。以前見たものと全く同じに見える。しかしそれは上手くいかない。 飛行機は降り立たなかった。 Radium Software Developmentより引用

正しいことを言ったって、それがつまらなければ無視される。

こんな宗教が発生した1910年代のメラネシアにも「理系」がいて、 文系の連中が起こしたカーゴ・カルトを非難したり、島民から裏切り者あつかいされて 迫害されたりといった黒歴史があったはず。

やっぱり悪いのは全部文系だ。

主導権を奪う文系

黎明期、新しい技術を知っているものが少数しかいない時代には、 その場所には厄介な文系なんて一人もいない。 技術の進歩も、その方向も、決定権は全て理系のものだ。

ところが、技術が進歩に応じて、文系の力がだんだん強まる。

技術屋がどんなに頑張ったって、その成果を査定するのは文系。

技術を作るのは理系だけれど、マーケットを作るのは文系。どんなに優れた技術だって、 マーケットに受け入れられなければ、存在しないのと同じ。

新しい技術が広まって、相手にするコミュニティが大きくなると、 技術屋的な「よさ」というものすら、必ずしもプラスにならない。

プロジェクトX 」。

あの物語は、技術屋さんから見れば「失敗」にも等しいプロセスで 成功にこぎつけた話ばっかり。誰かの失言、あるいはマネージメントの失敗を、 現場の技術者が倒れそうになりながら「尻拭い」した物語。

文系バカ受け。理系ドン引き。

無難であること、堅実であることは、文系的な価値観では短所ですらある。

広げる文系と積む理系

  • 理系は砂を積む。
  • 文系は砂をならして広げる。

砂時計のように砂が降り続けると、そこには ある一定の形の砂山が出来る。 砂が降り続けて、砂山がある臨界の大きさを越えたとき、砂山には雪崩が起きる。 雪崩を起こしたあと、砂山は裾野が広がり、再び砂は降り……。 局所局所で堆積と崩壊とを繰り返しながら、砂山はどんどん巨大になる。

砂を高く積むにはコツがある。崩れるまえに山をならして、砂山の裾野を広げてやれば、 砂は崩れることなくより高く積み上がる。

ならすのは文系。理系の本能は「とにかく上へ」。

砂山がまだ小さなうちならば、ならさなくったって砂山は自然に積み上がる。 砂山は、小さな雪崩を繰り返しながら、それでも確実に大きくなる。 文系の手なんて必要ない。

ところが、山が大きくなると、話は変わる。

砂山は、理屈の上ではいくらでも高く積み上がる。 そのかわり、砂山がある程度大きくなって臨界を越え、 今までの裾野の大きさでは山の形を維持できなくなると、 砂山は一気に崩れてしまう。

技術には「臨界」と「限界」という2つの側面がある。限界はまだまだ先のほうにあっても、 臨界にぶち当たって進めなくなっている技術がたくさんある。 限界を高めるのは理系の力だが、臨界を超えるのは理系ではなく文系の力だ。

こんな考えかたが成り立つのならば、やはり世の中には文系と理系、両方の人種が等しく 存在する理由があって、お互いに手を取り合わなきゃいけない…なんていう結論に なるのだろうけれど、本当かどうかは分からない。

「大きな崩壊が発生する前に山をならす」者として、文系人間には存在価値があるのか、 そもそもが重力に任せていれば山は勝手に大きくなって、やっぱり文系というのは邪魔をする だけなのか。

自分にできることといえば、理系っぽく、他の人と一緒になって砂を積むだけ。

いま医者にできること

技術の進歩というのは、理系と文系とが主導権を争う歴史物語だ。

哲学と数学の時代から宗教の時代へ、科学の時代を経て、法律と訴訟の渦巻く現代へ。

理系の辺境にある医療の分野もまた、理系がリードしていた時代がそろそろ終わり、 今再び文系がリードする時代が来ているように見える。

この数年の変化というのを、もっと大きな変動の前触れと取るべきなのか、 それともほんの一時の変化にしかすぎなくて、医者はまだまだ安泰なのか。

このあたりは地球温暖化の議論に似ていて、時間軸をどう取るのかによって、 議論の状況は異なってくる。時間軸を1000万年単位に取れば、 地球というのはむしろ冷えているし、時間軸を100年単位に取れば、地球は温暖化している。

温暖化の議論と異なるのは、時間軸を長期に取ろうが短期に取ろうが、 いずれにしても「次は文系の番」だということ。

文系の時代。理系の人間が生き残る術というのは限られてくる。

  1. コミュニティを理系制御可能な大きさに保つ :有名な医師や、病院の友の会のような コミュニティにこもって、「分かってくれる人」だけを相手に仕事をする。 たとえばグーグルという理系の会社は、 極めて大きな理系向けのコミュニティを作り上げて、それを制御しようとしている。
  2. ネクターに訴える物語を作る :技術的に優れていても分かりにくいものと、 技術的には劣っていても見通しのいいものとがあったときは、後者に乗っかる。 何か「進歩」を導入したとき、その必然性を説明しうる物語のない技術は、文系の時代には失速する。 レクサスが大失敗したのがいい例。物語が作れなくて、ただ「いい」だけなんて、もう広まらない。
  3. 偉くなる :文系世界では、その人の社会的な属性と、論理の明快さとは、同等の力を持つ。 理系は論理の明快さで文系に負けるから、とにかく「偉い」属性の人になって、文系の言論に対抗する。 「偉く」さえあれば、肩書きの真実性なんて、ある意味どうでもいい。

「変わらない世界」を夢見て専門性を高める人、世界がどう転んでも「潰し」が効くように、 中途半端な立場を維持する人、理系的な立場を止めて、 ブラウン管の向こう側から同業者を非難する「患者の味方」の先生。

立場はいろいろ。考えかたはみんな同じ。

潰れたくないし、できれば努力したぶん、いい思いしたい。

文系の時代。いずれにしても、医学の分野は臨界が来ていて、 今までどおりに限界を押し上げる仕事につける人の数は減ってる。

泣くのが嫌なら、どこかの方向へ歩いたほうがいいと思う。