Web 戦争論

「一人で戦う」なんてことは不可能で、個人が何かをしようと思ったら、 必ずそれに影響を受ける誰かがいる、そんな昨今。

誰かが論争を始めれば、否応なしに多くの人が巻き込まれ、それを見物する「祭り」が始まる。 戦いは、ノード同士のぶつかりあいなんかじゃなくて、巨大なネットワーク同士の ぶつかりあい。

イメージは雲と雲との争い。

論争する2人を、それぞれ大きな雲が取り囲んで、地上では雲同士の争いを みんなが見物している。お互いに雲を削りあって、戦いが終わったときに、 より大きな雲を残した側の勝ち。

雲はちぎれたって復活する。周囲の環境に応じてどんどん形を変える。 雲の中にいる人達は、自分達が果たしてどれだけの大きさを持っているのか、 自分自身を評価することはできない。

「どちらが勝ったのか?」答えを決めるのは、地上から見ている不特定多数の人達。 「雲」の側からはその姿は遠すぎて、その人達がどこにいるのか、何人いるのか、 そもそも見物人なんて存在するのか、それすら見えないかもしれない。

戦いは集団戦

支持者の相互理解を徹底できないままに突入した戦いは、たいてい負けが見えてしまう。

個人の穴は埋められても、自分を支持してくれる「誰か」の穴までは手が回らない。 自分の論理がたとえ完璧であっても、支持者がそれを理解していないままに支持に回れば、 その人が論破されてしまうかもしれない。誰がやられようが、負けは負け。それを「負け」と 認めた時点で、ネットワーク全体が腐り始める。

ネットワーク同士がぶつかりあうとき、ネットの防御力を決めるのは、トップノードの優秀さ なんかじゃなくて、共有する知識の正確さと論理の一貫性。 大きなネットワークが一瞬で作られるネット世界だからこそ、コミュニケーションは大切。

「正しさ」は検証される

正しさを強調した、自らを権威者とする議論手法はもはや通用しない。

議論のログは、後から検証される可能性がある。全ての言葉は、 地上にいる「匿名の誰か」によって分析され、検証される。 ネット世界は本当に広くて、その人はしばしば、 議論を始めた本人以上に専門的な知識を持っていたりする。

「私は正しい」論理は、どこか間違いが見つかった時点で負け。検証はバックグラウンドで 行われるのが常だから、「私が正しい」を主張した本人が知らないところで論理の穴を見つけられ、 笑いものになってしまうかもしれない。

大切なのは絶対的な「正しさ」なんかじゃなくて、「手に入った知識の範囲では、私はこう考えます」 という思考のプロセス。

切り崩しの手法は通用しない

ネットワーク同士の削りあい。ところが、ノードを一つ一つ潰していく手法は、 やっぱり通用しないかもしれない。

相手集団の誰かを論破したところで、弱い絆で結ばれた集団にとっては、 そのことは何のダメージにもならない。むしろ、切り崩しに用いたロジックが 誰かの不快感を煽るものであった場合、自分へのダメージとして帰ってくることすらある。

雲を殴ったところで手ごたえは無くて、誰かが雲を殴る姿というのは、 地上から見ると無様に写る。

「あいつ、馬鹿じゃね?」。審判からこんなイメージを持たれたネットワークは腐って、 雲は自然に小さくなって、議論は負け判定されるかもしれない。

ネット世界での議論手法は、物理的な削りあいというよりは、 「その集団に属していること」自体が嫌になるような、そんなレッテル貼りの戦いになる。

  • 「味方です」と表明して近づく人間を、ネット社会は拒めないし、無視できない。 それを無視すると、自分の陣営全ての人間をないがしろにすることになってしまう。 「味方です」という立場で批判を始めた人間に対しては、相手はそれを全否定するのではなく、 何とかして妥協点を見出そうと努力をしてくれる
  • 自陣への攻撃のうち、程度の低いものには真摯に対応し、「痛いところを突いてきた」 意見に対しては受け流すか、無視するようにするのが大切。シューティングゲーム弾幕誘導と同じ。 コントロールすべきは相手の「集団」であって、個人ではない
  • 自作自演で攻撃をするならば、自分の支援者を演じるよりも、相手陣営の「過激な味方」を 演じたほうが効果が高い。「痛すぎる味方」を抱えた集団は、「過激な敵」を前にした集団よりも 崩壊しやすい

地上は「事実」なんかに興味は無い

「理解しない相手が馬鹿」なんて攻撃ワードは、しばしば自分の首を締めることになる。

「我々のコミュニケーション努力が足りなかった」とか、「これからも分かってもらえるような 努力を続けていく」とか、「我々にも悪い部分がある」という立場を貫いたほうが、より模範的。

議論すべきは目の前の相手なんかではなく、地上で戦いを見物している「匿名の誰か」。

地上の人達は、「事実」なんかには興味が無く、 「どっちを悪者にすると面白いのか」だけにしか興味を持たない。 「悪いのは相手陣営なんかではなく、全ては分かってもらえなかった 我々の責任です」とバカのように繰り返せば、 審判団は喜んで「勝者」になった相手陣営を叩きはじめる

見物人を意識しない戦いなんてありえない。

彼らの対価は「話題」。ネット世界で人を集める原資となるのは、面白い話。 ところが、戦う誰かが「面白い」と感じたことと、 集まってきた人たちが面白く感じたこととはしばしば異なるし、 本人にとってまったく面白くないことが、「とても面白い話」として発信されてしまうかもしれない。

人を集めるのにはある種の面白さは大切だけれど、「面白すぎる人」には、 悲惨な未来しかない。

誰もが目を持つ時代

情報がみんなで共有されるのが当たり前になって、議論のログが半永久的に残る Web時代。

大好きだった詭弁の手法とか、工夫を重ねた恫喝の手口がだんだんと手詰まりになって、 日を追うごとに「いい子」になる自分にイラつくこの頃。

一昔前の「掲示板荒らし」みたいな明示的な戦いかたが意味を持たなくなった昨今、 次世代型の戦いかたというのは、外野から見ると、もはや戦いにすら見えないかもしれない。

なんだか気持ち悪い人たちが「いい人」の集団を一方的に叩いて、それをみた 「善意の人たち」が攻撃者をまた攻撃して。

そんな一連のやりとりの中で、攻撃してた連中が実は攻撃を受けていて、 「いい人」の集団というのが、実は加害者で。

ネットワークにつながったとき、誰かがきっと、あなたを見ている

こんな、サイバーパンク風味の「誰かの目」を信じられるようになったBlog 時代、 それは攻撃対象としても十分に信じられるものになった。

全部を見せながら、それでもそこに意図を織り交ぜて。目で見て判断したつもりでいて、 実は見せられて、一つの判断に収束させられて。

戦う誰もが「いい人」になって、バックグラウンドで意識操作を仕掛けあう争い。

きっと面白いと思うんだけれど。