問題と向き合う態度について

それが勉強であっても遊びであっても、何かの問題に対峙したときには、まずはその問題とどう向き合っていくのか、自分の覚悟というか、計画を「これ」と定めておかないと、努力を積むときの効率がずいぶん変わってくる。

人間の先を超えた人

難しすぎて、人間には攻略不可能なんじゃないかと言われていた「怒首領蜂 大往生 デスレーベル」をクリアした人のインタビュー記事 が興味深くて、未だによく読み返す。

ゲームを攻略するときには、「リソース管理」と「クリア計画」という考えかたがあって、自分にはとても新鮮なものたに思えた。

<引用>

クリアの計画とは普通のシューティングゲームを攻略する場合に使う大局的な考え方で、コンティニューしても何でも良いのでとりあえず1回ラスボスを拝むところまでプレイした後に、ラスボスを倒すためには何が必要かを見積ります。

具体的には、まずラスボスを確実に倒すためには残機が何機必要で、ボムが何個必要……と条件を設定します。次に、それだけの残機とボムを残すためには、そこまでのプレイでどれだけ消費できるのか、使える残機とボムの数を1面から計画していくのです。

<ここまで>

こうした考えかたを、たとえば学校で習っていれば、受験勉強のやりかたはずいぶん変わったのではないかと思った。

努力にも積みかたがある

受験専門の私学に通っていたけれど、勉強はやはり、努力を重ねるものだった。

授業の内容や、受験の指導それ自体は受験勉強に特化したものであったし、学期の最初には、先輩方の受験体験記も配られた。それはとても貴重な資料であったし、結果として自分は大学に入ることができたけれど、受験体験記に書かれていたのは努力を継続するコツやノウハウであって、目標達成のためにはどういう計画を立てるべきなのか、自分に足りない部分をどうやって発見すればいいのか、計画のたてかたや、見直しのタイミングといったものは書かれていなかったし、そもそも「問題解決のために計画を立てると便利だよ」という考えかたに、触れる機会が得られなかった。

医師国家試験の昔だって、基本的には努力と蓄積だった。国試は暗記量が莫大で、努力継続のために勉強会形式をとり入れることが、当時の工夫と言えば工夫だったのだけれど、今にして思えば、受験勉強にしても、国試勉強にしても、自分には計画というものがなかったし、勉強こそ重ねたけれど、今の自分にとって何がたりなくて、それをどう補うべきなのか、そうした見直しも行わなかった。

それが受験勉強ならば、「受験に合格」という目標を達成するために、そもそもどのぐらいの知識が必要になるのか、それをいつまでに達成していれば足りる物なのか。「成績を出す」とはそもそも何をすればいいのか、自分の成績がある状況に置かれた場合に、そこから「合格」という行程を確実に達成するには、最高到達点を高めることが正しいのか、それとも取りこぼしを少なくするのが正解なのか、そういう選択があることも知らないまま、そういえば昔は、努力を重ねた。

結果は神様から与えられるもので、努力というのは無目的に積むもので、結果にたどり着くための手段にはなっていなかった。

偶然と無作為とは違う

大昔、自分にとって受験というのは運だった。努力の蓄積は、あくまでも自身の心を落ち着かせるための薬みたいなもので、合否の決定は最終的に、運が決めるものだと考えていた。体感としてそれは間違っていて、勉強しないで「運だけで」合格する同級生はいなかったけれど、勉強を一生懸命行って、それでもなお、運悪く落ちる同級生はたしかに存在していた。

結果が偶然から自由になれないことは、結果が無作為であることを意味しない。

<インタビューより引用>

たとえば、ある攻撃を超えられる確率が10分の1だとして、同じような攻撃が10箇所あると考えると、全体を突破できる確率はとんでもなく低い確率になってしまいます。でも仮にその内の9箇所の攻撃がパターン化可能なものであるならば、突破確率は10分の1という、手の届く範囲にまで上昇します。

シューティングの攻略で重要なのは、パターンを作ることで「いかに不確定要素をつぶしていくか」という点なのです。

<ここまで>

努力を積んで、「努力すれば神様はそれを見ていてくれる」という考えかたは、どこかで勝利を放棄している気がする。結果を必然にすることはできないにせよ、努力にはたしかに意味があって、その代わり、意味を持たせるためには計画がいる。

学校で行われていたこと

リソース管理の考えかたは、ゲームセンターに通っていれば当然身につかないといけないのに、小学校から高校生まで、ゲームセンターには日参していたのに、自分にはついに学ぶ機会がなかった。目の前ではたぶん、たくさんの名人がクリア計画のもとに成果を上げていたはずなのに、自分は見るべき何かを見ていなかった。インタビュー記事はそういう意味で、気付きが大きかった。

自分が通っていた学校には、じゃあそうした「リソース管理」の考えかたがなかったのかといえば、そんなことはなかったのだと思う。

当時の生徒指導では、たとえば「社会科にリソースを割けるのならば地理を選べ。100点が狙える。倫理政経は勉強しても80点止まりだけれど、勉強しなくても70点取れる。お前は理科に全力投球して、社会科は倫理を選択しなさい」とか、そういうアドバイスはもらっていたから。

学校では、「リソース管理というものがある」ということこそ習わなかったけれど、具体的な配分は指導してもらえた。

応用から基礎を見いだすのは学生の仕事とは言え、当時手取り足取りリソース配分調整してもらったくせに、大学に入って、じゃあ自分がリソース配分考えながらいろいろできたかといえば、全然そんなことなかった。 考えかたというものは、名前を付けて初めて見える部分が少なからずあって、リソース配分の考えかたとか、終わりから逆算して不確定要素を減らす考えかたとか、自分はある程度身についていたにせよ、それに名前をつけて意識できるようになったのは、ごく最近のことだった。

今やっていること

昔出版させていただいた内科診断の本は、今でも手元では改訂が続く。自分にとっての勉強は「教科書の改訂」とほぼ同じ意味で、あの本はだから、普段の自分が問題とどう向き合っているのか、それを表現したものにもなっている。

分厚い教科書をひたすら読む、知識を詰め込むというやりかたは、いざ何かの問題に当たったときに、せっかく獲得した知識を役立てるのが難しい。ひたすら頑張るやりかたは、「俺はこれだけ頑張ったんだ」という信仰の基礎になることはあっても、それを使って何かの目的を達成していく上では、やはり効率が悪くなってしまう。

ある問題に対して、自分はこういうやりかたでそれに臨もうという計画や、問題と向き合う態度をこれと決めると、これから摂取する知識がその計画のどのあたりに役に立つのか、どの場所におさめるべきなのかが決まる。ある問題があって、その知識が役立つまでの道筋が明らかになる。

「学んだ知識が役に立った」という体験は、学習に対する報酬になって、勉強が長続きする。勉強が修行であった人は、ある問題を乗り越えて以降、もしかしたら勉強を放棄してしまう。努力して免許を取って、それ以降の勉強量が落ちてしまうという問題は、あれは熱意の枯渇というよりも、賞賛の喪失が原因なのだと思う。

努力にも積みかたがあって、ゲームのルールは各自が見いださないといけない。いいゲームをデザインできた人は勉強が賞賛を得る機会になるし、賞賛する仕組みをたくさん作り込んだゲームはさらに遊ばれて、いい循環を生む。

学校ではそんなことを教えてほしいな、と思った。