政治家の作法について

大義を運用して、道義でもって対象を操作することが政治家の「アート」であって、 それを怠ったり、ましてや政策なんてものに頼るような人は、政治家になってはいけない。

阪南市立病院のこと

阪南市立病院で、2000 万円の報酬で働いていた医師が、 市長の交代に伴って、1200 万円への減額を提示されて、全員退職するらしい。

この事例は、もう全面的に市長が悪いよな、と思う。

前職を破って当選した今の市長が、きちんと「政治家」として振る舞っていれば、 恐らくは医師の確保と予算の削減と、両立できる目は十分あった。

「政治家」なら、まずはマスメディアを引き連れて、病院に乗り込んでいく。 医局にカメラを入れて、減額されたら辞めるかもしれない内科の医師がいる目の前で、 「私がだらしないせいで、来年度は1200 万円しか払えない。 市長としてあなた方の仕事には本当に感謝しているのだが、市にはお金がない」なんて、 カメラの前で土下座したり、涙の一つもこぼして見せれば、医師はもう辞められない。

頭を下げて大義を奪う

市長が「私の責任」を先に認めてしまうと、医師の進退は、「モラルの問題」に帰着させられる。

お金じゃない」なんて、通勤の足にフェラーリ買って、 雨の日には長靴代わりのレクサス使い捨てるような開業医ですら、間違いなくそうつぶやく建前は、 医師の振る舞いを強力に縛る。

「お金じゃない」の文脈で、市長が自ら頭を下げて、ここで医師が退職を表明すれば、 それは「要するにお金でした」なんて本音を、満天下にさらすことになってしまう。

医師は辞められなくなるし、辞めるとしたら、もう全国民敵に回すことになるから、 医師が所属する医局もまた、撤退を支持できなくなってしまう。

「医師の給与は高すぎると思っていた」なんて、市長がふんぞり返ったその時点で、大義は医師の側に来る。

新しい市長は、医師の仕事を今までの「6割掛け」でしか評価をしていないことを表明したわけだから、 医師は「我々の仕事が6割の評価なら、10割評価している人の下で働きたい」なんて、 「お金じゃない」大義の下に、自分の行動を自由に決められる。

ほんの少し、頭を前後に振ってみせるだけの行為を惜しんで、結果として「道義」を全て自分でかぶる形になって、 大切な「大義」を相手に譲る。

これは失政であって、大阪の人達は、市長の無為を叩くべきだと思う。

大義を守って道義を押しつける

政治というのは本来、相手の振る舞いを道義で縛りつつ、大義を自らのものとして守る、 言葉による格闘技術なのだと思う。

今回のケースなんて、「政治ゲーム」が開始されたその時点で、医師側は圧倒的に不利だったし、 実際問題、医師にできることなんて何一つ無かったのに、市長は一方的にゲームをしくじって、 結果として、医師が全員退職してしまった。

両親におもちゃをねだる小学生でも知ってそうな扇動の基本技法を、最近の偉い人は、 どうしたわけだか使おうとしない。「モラル」を口にした通産大臣も、医師を辞めさせた市長さんも。 振る舞いが「教科書どおり」なのは、「そのまんま東」と「橋下知事」ぐらいしかいない。

どうしてなのかよく分らない。それは「劣化」なのか。それとも何か、使えない理由があるのか。

扇動の技術というのは、そもそもが「無駄」な技術ではあるんだろうけれど、 無駄だから省いていいことと、それを知らなくてもいいこととは、全く違う。

医療の問題なんかは、気の利いた扇動者が一人でもその場にいれば、 自分達なんかは明日からでも、「誠意のある熱心な医師」として、 倒れるまで働かざるを得ない状況に追い込まれたって、全然おかしくないのに。

大臣の「モラルが足りない」発言は、なんかおかしい。

政治家にとってモラルというのは、「相手からの発露」を期待するのではなくて、 言葉の力で、相手を「モラルを発揮せざるを得ない場所」に追い込むことで、 強引に作り出して、利用されるもの。

モラルはだから、政治家なら自由に生み出すことができるし、時にはだから、「モラルがありすぎて」、 側近が自殺に追い込まれたりする。「モラルがない」なんて怒る政治家は、本来は自らの無能を恥じるべきであって、 なんで自分達が怒られないといけないのか、正直よく分らない。

挑戦者から厳しく攻められた将棋の羽生名人が、「君には挑戦者としての慎みが足りない」 なんて怒り出したら、みんな名人のことを笑うだろう。

朝三暮四を通用させる

「政策を作る」ことなんて、そもそも政治家の仕事にしてはいけない気がする。

国なんてなかった大昔、リーダーの役割は「鼓舞」であって、具体的なやりかた、政策に相当するものは、 リーダーに鼓舞された、方向だけを与えられた集団の、たまたま先頭に立った人が、場当たり的に生むものだった。

リーダーは、煽って示して押し出して、最前線が、押されて頑張る。成果を全て自分の功績にする人は独裁者だし、 成果を「みんなのもの」にして、リーダーがリーダーであり続けることを望むなら、民主主義が生まれる。

本当の政治家は、「朝三暮四」の、無意味なやりかたから、実体としての力を生み出す。

大義を振りかざした政治家が、頭を下げて握手して、にこやかにほほえみながらスピーチするだけで、 周りにいる人達には「道議」が発生して、「誠意のある人間」という立場に追い込まれて、 笑顔で倒れるまで働かざるを得なくなる。

そうするのが一番楽だからこそ、人は「そう思われる」ように振る舞おうとする。

どうせ汚職するだろうとか思われれば汚職に走るし、「画期的な国策を考える人達」なんて、 舞台のてっぺんに押し上げられれば、その人達は、嫌でも「すばらしい人」として振る舞う。 政治家というのは、「そう思われるありかた」を、対峙する全ての人に示せる人であるべきだし、 そういう技能を継承したり、身につけることができなかった人は、やっぱり政治の舞台に立ってはいけないような気がする。