惰力と能力

最後には絶対的な壁が立ちはだかるにせよ、能力の不足というものは、「惰力」で補うことができるのだと思う。

自らの意志で判断したり、決断を行って成功する人はかっこいいけれど、自ら動くあのやりかたは、正解に遠いというか、成果に支払うリスクが必要以上に高いような期がする。リスクを取って、たまたま生き延びることに成功した人は、こうしたやりかたを正しいと断じるだろうけれど、「いい惰性」の中に身を置いて、惰性の中でだらだらと行動した人が、気がついたら成果にたどり着いていたケースは、たぶん世の中ではずっと多い。

勉強会の昔

今でも時々、試験前の夢を見る。

恐らくは大学生だった昔が舞台で、試験は目前に迫っている。自分はといえば試験の準備もできていない、講義にもろくに出席していないものだから、内心はとても焦っているのだけれど、勉強するわけでもなく、何か好きなことに没頭するわけでもなく、夢の中ではいつも、自宅で本など読みながら、一人ゴロゴロしている。

期日が近いということは理解しているのに、自分には実際のところ、試験日がいつなのか、そもそもどんな教科書で試験の準備をすればいいのか、それがすでに分からない。調べればいいことなのに、夢の中ではいつも、自分にはなぜかそれができない。

余裕なんて全くない、むしろ今すぐにでも援助を受けないと危機的な状況にあって、なぜだか自分は余裕があるふりをして、内心は焦りつつも、なんの情報を得ることもなく、ただただ時間だけが過ぎていく。妙に居心地はいいのだけれど、その余裕にはなんの根拠もないどころか、状況が刻一刻と悪くなっていくなか、自信はなぜか確信に変わって、勉強机はますます遠ざかっていく。

ある日突然勉強をする気になって、心機一転、友人の誰かに試験の日程を尋ねる。自分は内心、試験まではあと2ヶ月ぐらいと見込んでいて、今からでも必死に勉強すれば、今までだらだらと「貯めた」エネルギーを使って挽回できると踏んでいたのだけれど、試験はもう、あと4日後には行われる予定になっていて、試験の範囲は莫大で、そもそもたぶん、問題集はおろか、教科書をさらっと流すのだって難しい。このとき初めて、「自分にはもう選択肢がない」という事実がのしかかってきて、頭を抱えて目が覚める。

医師国家試験の準備をしていた昔、先輩方からは「とにかく勉強会を始めなさい」というアドバイスをいただいて、国試のだいたい1年ぐらい前の頃、自分たちは勉強会を始めることにした。大きな目標を立てるわけでもなく、すばらしい熱意を持った誰かが会を率いたわけでもなく、とりあえず定期的に集まって、だらだらと問題集を解いていた。

国家試験の準備は面倒で、読み終えなくてはいけない参考書の量は膨大で、これを一人でこなすのは絶対に無理だと思ったけれど、自分に割り当てられた分量をこなさなければ他のみんなに迷惑がかかる。「友人に叱られたくない」という、えらく後ろ向きな理由で勉強はそれでも進んで、夢にでる程度には大変であったにせよ、国家試験は無事に終わった。

仲間がいると上手くいく

「いい惰性」の中に身を置くことで、能力の足りない人でも、能力以上の場所に連れて行ってもらうことができるのだと思う。

自分が卒業したのはいわゆる「受験校」だったけれど、何か特別な教科書が使われるわけでもなく、先生がたから「勉強しろ」などと怒鳴られるわけでもなかった。その場ではまわりがなんとなく勉強していて、勉強している連中もまた、なんとなく勉強していた。そうした「なんとなくの連鎖」が進学校の強みであって、自分もなんとなくそうしなくてはいけないような気になって、それなりの勉強量をこなすことになった。

受験校の合格率が高い理由は、結局のところ「そういう空気がそこにあるから」に尽きるのだろうと思う。そこで提供されるコンテンツの品質よりも、「そういう空気」の存在が、成果を大きく左右する。

最近読んだ 「はじめてでも安心 コスプレ入門 」という本には、何よりもまず「仲間の作りかた」が紹介されていて、興味深かった。

趣味の本はたいてい、まずはその領域を極めた人達のすばらしい成果が紹介されて、「頑張ればこんな作品を作れます」という文章が続く。この本ではむしろ、まずは読者にも簡単にできるやり方の紹介、そのあとすぐに、コンテストや展覧会への参加、そのときのマナー、移動の際に荷造りをどうするのか、持って行くと便利なものはなんなのか、実用的な知識の紹介が続く。

最高到達点を読者に紹介するやりかたは、読者をその趣味へと誘うための試みだけれど、最高到達点のすばらしさを楽しんだ読者は、もしかしたらその趣味をあきらめてしまう。読者が自らの手を動かさないと始まらない領域だと、なおのことたぶん、最高到達点のすばらしさは、趣味を続ける動機付けには貢献しにくい。山を紹介する際にはたぶん、「頂上のすばらしさを語ってみせる」やりかたと、「山道をとにかく歩き出す」やりかたとがある。本当に山に登ってみたい人にとっては、頂上のすばらしさを語る人よりも、もしかしたら実用的な歩きかたを教えてくれる人が役に立つ。

空気とリスクについて

災害のときにはたいてい、勇敢な人達が現れる。自らの命を省みることなく、恐ろしい状況にあって、それでも冷静に事態に対処して、奇跡的な成果を生み出してみせる。こうした人達は、勇敢な決断の元に超常の力を発揮したわけではなくて、むしろ恐ろしい状況にあってもなお、「そういうものだから」という空気に従った結果、異常な状況で普段訓練したとおりの成果を成し遂げられたのではないかと思う。

自らがおかれたリスクを正しく評価して、リスクと利益の分岐を見極めた上でリスクを取れる人は、きっとそんなに多くない。その一方で、「まわりがそうしているから」、危ない橋を、あたかもリスクなんて無いかのように渡ってみせる人は、たぶん多い。

専門家としての訓練を受けた人であっても、未知と対峙したときの振る舞いは、結局のところ無知を根拠に置くことでしか決定できない。「今まで大丈夫だったから」前に進む人もいるかもしれないし、「今まで大丈夫だったけれど」分からないから避ける人もいる。どれだけの数字を積んでも、資料を積んでも、最後はたぶん、物事はその人の周囲にある惰性で動く。

最近、今さらながら123便のフライトレコーダー記録を聞いた。旅客機パイロットという、高度に訓練された専門職とは言え、あれだけの状況で、よくも最後までパニックに陥らずに通信ができたものだなと思った。あの冷静さはもちろん、旅客機を操縦していた人達の職業意識が極めて高かったことに尽きるのだろうけれど、通信していることそれ自体、あるいは全ての会話が常に記録されているというあの状況は、極限にあって人間を強引に冷静にさせる力があるのではないかとも思えた。

震災当日、原発災害対処のまっただ中で、まず真っ先に放棄されたのが議事録だった、という逸話を想像した。議事録を手放すことと、そこにいる人が冷静さを手放すこととは、たぶん等しい。通信が生きていること、録音されていることは、結局のところ、「空気の力に人を強引に同調させる」こと以外の何者でもないにせよ、録音機をそこに置くだけで、逃げ出しそうな人はそこにとどまり、叫び出しそうな人は冷静になり、アイデア不在の破綻状況にあって、そこで立ち止まって冷静に対処する人が出現する。

惰力と能力のこと

「田舎の神童」には受験校なんていらないし、受験校で勉強した人間以上の成果に、彼らは易々と到達して見せたりもする。それでも「神童」は少ないし、目的が異なれば、受験勉強から国家試験の勉強へと目的が変化すれば、彼らだって勉強会の力を借りる。

「そういう空気」を生み出すやりかたはたいていが後ろ向きで、根本的な解決が好きな人からは叩かれる。「そんなものは必要なかった」という反例はたくさんあるだろうし、場が目指した方向に、その場の空気を無視したことで大成功した人もたくさんいるのだろうけれど、空気の力で惰力を得、能力以上の成果に到達できた人もまた、きっと黙っているだけで、それなりの数はいる。

天才のひらめきが成し遂げた成果の総和は、無数の凡人が結集した惰力による成果よりも、もしかしたら少ないのだと思う。

「そんな空気」はどうやって作るのか、惰力を効率よく伝播する環境とはどういうものなのか。「いい惰性」に身を置きたいなと思う。

今年もよろしくお願いします。

中心は黒がいい

ずるい人は得をする。得があるから人が集まって、人の集まりが組織を作る。組織の真ん中にはリーダーがいて、リーダーはもっともずるい人だから、リーダーはたいてい、黒から始まる。

黒は仲間を増やす

黒い人のまわりに人が集まった人達も、外から見ると黒くなる。色は混ぜれば別の色になるけれど、黒にどんな色を混ぜたところで、黒はやっぱり黒く見える。

黒い人達を取り巻く誰かにとっては、そうしたリーダーが率いる組織は「ずるい」連中に見えるだろうし、ずるさと感覚される何かはたいていの場合、そのルールに対する正解でもある。「ずるい」連中は時々叩かれて、ルールは変更されるけれど、リーダーにアイデアがある限り、その場は黒く、居心地良くまとまっていく。

リーダーは「きれい事」をつぶやく

お客さんを相手にする仕事において、お客さんから見て「きれいでない」組織は成功できない。「黒い」リーダーも、「白い」リーダーも、だからみんなきれいな言葉を語って、きれいな理念を仲間と共有する。

理念には、「これをやりたい」という盛りの要素と、そのために「これはやらない」という削り要素との側面がそれぞれにある。

「黒い」リーダーは、きれいな理念の裏側で、理念の削り要素を共有しようとする。「これは削ろう」の基準を共有できたチームは、お互い持ち寄った何かを大胆に削れる。集めた何かを削った結果、「これをやりたい」という何かが達成される。

「白い」リーダーの組織には、削り要素が存在しない、あるいは削るためのルールが備わっていない。盛り要素だけで構成してしまうと、理念は好き勝手に運用される。「これをやりたい」のならば「これもやるべきだ」という論法で、誰もが好きなものを盛りはじめて収拾がつかなくなってしまう。

削る決断が誰にもできない、あらゆるものが盛られた器があふれる頃、「白い」リーダーは、「頑張って」「無駄を無くそう」と宣言する。そこにいる誰もが疲れ果て、やりたかったものがそもそも何であったのかがわから抜かった頃、白い理念はたいてい、「こんなはずではなかった」何かにたどり着いて終わる。

リーダーは白くなる

イデアには限りがある。限りあるものはそのうち枯れる。アイデアが枯渇したリーダーは、まわりから見て白くなっていく。

リーダーが「頑張ろう」という言葉を使い出したら、そのリーダーはもしかしたら白くなっている。「頑張れ」はアイデア不在の悲鳴であって、アイデアがあるリーダーは、「頑張れ」と言わずにアイデアを語る。

「頑張れ」は現場不信の表明でもある。黒いリーダーは、現場が「頑張らざるを得ない」ルールを設計して、その中で「自由にやって下さい」とやる。そうしたアイデアを持ったリーダーは、だからまわりから見て黒く写るし、黒さが支配するその場所は、案外居心地が良かったりもする。

イデアが枯渇したリーダーは漂白される。自らの白さが、アイデアの欠如を免責する根拠になる。

一度白に転じたリーダーは、周囲の黒さで自らの白さを測ろうとする。理念への同調を強いつつ現場への不信を表明することは、白いリーダーにとって、自らの白さを裏付けるための必然ですらある。リーダーが自信の白さを確認したその結果、黒い人から、役立つ人から、組織からは人が抜けていく。賛同する人が少なくなった頃、リーダーは加速度的に白くあろうと努力する。悲鳴のように「頑張れ」を繰り返して、そのうちみんないなくなってしまう。

中心は黒がいい

田舎の医療は煮詰まって、医師会や保健所から、要するに「頑張りましょう」という文書が回ってくる機会が増えた。テレビで見る政治家も、自らの白さを喧伝しつつ、「頑張ろう」を連呼する。あれは本当に恐ろしい。

ブラック企業」のリーダーは「白い」人なのだろうし、既得権や、その場のルールに上手く乗っかりながらきれい事をつぶやくリーダーは「真っ黒」なくせに、そうした組織にはいい人が集まる。黒いリーダーもまた、足下が崩れてアイデアが枯渇する未来には、きれい事が「つぶやき」から「悲鳴」に変わって、自身も白く変じてしまうのだろうけれど。

「白」が「黒」に変化するのは難しく、「黒」だっていつかは「白」になる。自分がどちらの側なのか、自身からは見えないけれど、「黒」でありたいなと思う。

来年もよろしくお願いします。

偏見を獲得すること

「使える」人、能力を持った人という考えかたは、「問題の解決にあたって実用的な偏見を獲得した人」と言い換えてもいいのだと思う。

頭の棚は便利

知識を習得する際に、「この知識はこの場所に」という、頭の中に知識の居場所を作ってから教科書にあたると、勉強が捗るような気がする。知識の居場所を作るということは、要するにその分野をあらかじめ概観することだから、これはある意味当たり前ではあるにせよ。

ある分野の勉強自体が仕事になっている人達は、誰もがたぶん、頭の中に脳内地図みたいなものを作っておいて、その地図に従って知識を格納している。教科書や論文は、知識の居場所を作らないまま、ただ漠然と読んでしまうと、せっかくの知識が頭に残らない。獲得した知識をどんなルールで配列、格納しているのか。そうした配列の考えかたを、いつ、どうやって知ったのか。配列の一番最初、「空っぽの棚」に相当するものを、頭の中にどうやって作り出したのか。勉強が得意な人達は、このあたりに何らかの工夫をしていて、まじめな割に勉強が進まない人は、恐らくは配列の考えかたを参考書にゆだねてしまう。

受験勉強を乗り切るコツとして、「参考書を読むな。問題集を繰り返せ」と説かれることがある。参考書というものは、「必要な知識を分かりやすく伝える」という問題に対峙した人が、それに最適な配列を行った知識の集積であって、その配列は必ずしも、「受験問題を解く」ために最適になっているとは限らない。

対峙する問題が異なれば、必要な配列は異なってくる。参考書から配列を学んでしまうと、だから失敗する可能性が高くなる。自分が今対峙していて、これから乗り越えていかないといけない問題はどういうものなのか。それにふさわしい配列はどんなものなのか。参考書からもらった知識は、丸暗記するのではなく、自分なりの配列で、頭の棚に並べ直さないと使えない。

勉強の効率が悪い人にとって、勉強というものは、「すでに配列された本棚ごと自分の部屋に運び入れること」に相当する。効率よく学ぶ人にとっての勉強は、「床にばらまかれた本を自分の棚に並べ直す」作業なのだと思う。最終的にできあがるのは「本の並んだ本棚」であるにせよ、その意味合いはずいぶん違う。

配列と偏見

学習とは、自らの偏見に基づいた、断片的な知識の再配列に他ならない。教科書の配列をそのまま受容することは「暗記」であって、学習とは違う。偏見を持たない人は、裏を返せば学べない。

漠然と読んだ知識は、居場所がないから残らない。あらかじめ知識の居場所を作っておいて、「この知識は、この知識と関連づけて、脳内地図のこの番地に置いておこう」という態度で教科書や論文を読むと、読んだ分だけ知識が残るし、漠然と読むよりもスピードが上がる。

「偏った」人と、「勉強が得意な」人との差異は、ある問題を解決するにあたって、それぞれが獲得してきた偏見が役に立つのかどうかで決定される。偏見に優劣は存在しないし、問題が変わればもちろん、「使える人」の居場所に立つ顔ぶれも変わってくる。

極めて偏った目線でものを見る人は、学習の効率がいいとも言える。何を見ても「どうせこうだろう」という目線が全く動かない、「学べない」人というものは、逆説的に、学習の速度が恐ろしく速い人でもある。柔軟さは大切だけれど、恐らくは柔軟さと学習速度とはトレードオフの関係にあって、「偏見無く柔軟に」頑張った人は、結局学べないのではないかと思う。

人と機械との関係

舞台になるのは、無人操縦ができる程度の判断力を備えた車が走れる近未来。映画「ターミネーター」のスカイネットみたいに、意志を持ったPCがネットワーク越しに様々な制御を行っている設定。

動機はなんでもいいと思う。「環境にとって人間が邪魔だった」でもいいし、人間の認識を超えた電子知性の考えることは分からないから、単に「それが面白そうだった」からでもいい。いずれにしても物語の常で、人間に使えていた電子知性は、ある日人類の殲滅を決意する。

敵は弱くてもかまわない

人類を滅ぼす意志を持ったPCがどこかに生まれたとして、ハリウッド映画みたいに強力な兵器を開発する必要は、電子知性の側には発生しない。機械は壊れても直せばいいし、壊れたってかまわないのなら、いっそ最初からボロボロの機械を集めてきて、武器に改造すればいい。人類は、弱い兵器を簡単に壊せるけれど、人間は壊れても替えがない。「壊れても作ればいくらでも替えが効く」という無人機械のメリットは、対峙する相手が生物ならば、絶望的な差として効いてくる。

行われる「戦争」は、「ターミネーター」よりも、むしろゾンビ映画に近い光景になる。自爆前提の無人兵器、爆弾を積んだ、スクラップ寸前のありきたりな無人乗用車が、ゾンビみたいに町をのろのろと濶歩する。人類が反撃すれば、そんな兵器は簡単に破壊できるだろうけれど、壊したところで終わりは来ない。機械は無限に時間を持っている。相手を壊して位置を特定されて、別の無人乗用車が近くを通れば、それが人間の存在を感覚して、自爆して相手を殺す。使う人も久しくいない、薄汚れた自販機に人が近づくと、「いらっしゃいませ」の一言と共に自爆したりもする。原始的だけれど、これで十分だと思う。

ボディは錆びて、タイヤはパンクして、動くのがやっとの無人車が、昼夜を徹してよたよたと町を見回る。見える場所から人は隠れて、道を歩くのは野良犬や野良猫ばかりになる。町には時々自爆の音が響いて、そんなことが何年も繰り返される中で、人間はたぶん、もう町には住めなくなってしまう。

人間とは何か

「機械のゾンビ」的な何かに都市を占拠されて、人間が都市から追い出された頃、物語は「人間とは何か」という定義の問題に踏み込むことになる。電子知性はどうやって、人間だけを区別して殺すのか。

2足歩行は人間なのか。車に乗っていれば機械になれるのか。たとえば二酸化炭素が問題ならば、ドライアイスを積んだ自転車を突っ込ませたら、それは人間のデコイとして役に立つのか。人間が機械に勝とうと思ったら、無数の自爆武器で囲われているであろう相手の中枢に乗り込む必要があって、何とかして電子知性の目をごまかせれば、まだしも勝ち目が見えてくる。様々な疑問とアイデアとが提出されて、仮説が検証されることになる。

電子知性は自己進化する人工知能として設定される。ソースコードが人類の手元にあっても、そこから相手の思考を読み取るのは難しい。機械の考える「人間」とはどういう存在なのか、ローテクと血の犠牲を支払って人工知能をハックする、絶望的な解析が続く。

闘争する意志について

敵役となる電子知性が、人類を滅ぼせる程度に賢明で、人間と他の動物を何らかの方法で区別できて、なおかつ「動物の命」よりも「自分の命」を重んじる立場を取るのなら、たとえばアサルトライフルを持たせたサルを突っ込ませても、機械はサルを殺さない。ライフルの代わりに、時限爆弾やリモコン爆弾を背負ったサルを歩かせれば、サルは殺されてしまう。

サルはライフルを持てないし、引き金を引いたところで狙えない。ライフルは武器だけれど、意志に基づいて運用されない限り、機械には脅威にならない。爆弾は、それが時限爆弾であれ、リモコン爆弾であれ、それを背負うことは、否応なしに「相手を破壊しろ」という人間の意志を背負うことになる。意志を背負った動物は、機械の側から見れば等しく破壊の対象となる。

機械と人とが対立していく中で、機械にとっての人間とは結局なんなのかといえば、「闘争する意志のことである」という理解に到達する。

機械と人とは違う。闘争する意志を持った存在が、お互いを違うと認識する。戦争を始める理由としては、機械にとってはこれで十分なのかもしれない。

勝利条件は何か

「相手の全滅」は、勝利の条件にはなり得ない。人間は機械無しには生きられないだろうし、知性を持った機械がそのときに存在したのは、恐らくは「それが便利だから」であったわけで。

人類が対峙する機械は、ほんの少し前までは共存していた存在で、ある日いきなり病的な状態になった。状況は戦争というよりもゾンビ映画であって、ゾンビものには基本的に、ハッピーエンドはありえない。ワクチン的な何かを物語に導入して、ゾンビ化した自爆機械を「治療」できたところで、治療とは、機械にとっては意志の剥奪と意識の破壊に他ならない。それはサービスの後退を意味していて、便利さはたぶん、人類に後退を許してくれない。

戦争の前提を覆すことが必要になる。「機械と人間とは異なっている」ことと、「闘争する意志」の存在が、それぞれ問題の鍵となる。

映画「第9地区」では、「違い」を問題の中心に据えていたけれど、機械と人間との違いを乗り越えるのは難しい。意志の問題に対して、都市を追い出された人間に何ができるのか。人類の側が闘争の意志を捨てる。そもそも被害者なのは人類の側だけれど、「人類が機械を許す」ことができるのなら、あるいは機械との戦争も終わるのかもしれない。

ここから先は分からない。人間が「許した」と宣言したところで、武器無しに都市に戻れば、機械に殺されるリスクは高いだろうし、この状況で「人間に味方する機械」を導入するのも何か違う。

戦いの前提に介入できるのは「子供」であって、何らかの「教育」が施されるのか、それとも赤ん坊レベルの子供を都市に放置して、機械に生体を育ててもらうのか、いずれにしても、機械を理解できる意識と、人間の身体とを持った仲介者が生み出されれば、彼らは町を安全にあるくことができるかもしれないけれど、そうした存在は、もはや人類の意志を継いでくれるとも思えない。

誰かオチをつけて。。

対等な関係は難しい

白い巨塔という医学小説は、主人公たる財前は悪役として、財前を告発した患者さん家族の味方となった里見は正義として描かれるけれど、あの物語において、財前はむしろ被害者であって、本当の悪役は里見なのではないかと思う。

対等と正義は相性が悪い

物語の序盤、財前は、手術した患者さんの肺転移を見逃す。まわりはそれに気がつきつつ、誰もそれを財前に進言できないままに状態は悪化する。里見もまた、財前に「これは肺転移だ」と進言したはずだけれど、結局生検は行われることなく、患者さんは亡くなってしまう。

患者さんの経過において、もちろん責任者は主治医であった財前だけれど、患者さんは結局亡くなってしまうであろうとはいえ、訴訟を回避できた可能性は無数にあった。肺転移した胃癌に対して、昭和40年代の医療でできることはほとんど無かっただろうから。ところが「正義の人」である里見があの場所にいたことが、そうした可能性を閉ざしてしまった。

「対等な関係」にある誰かが「正義の人」であったとき、その組織で致命的な失敗が起きる確率は飛躍的に高まってしまう。

火嫌いと火消し好きの関係

小説とドラマの記憶が混ざってしまっているけれど、「白い巨塔」の里見という人は、一緒に働くにはけっこう厳しい。

何か問題を発見すると、里見は「これは問題だ。君はこうするべきだ」といったやりかたで問題を指摘する。プレゼンテーションのありかたとして、これは微妙に挑発的で、「売り言葉に買い言葉」的な状況に陥りやすい。

里見の助言は、それを受け入れる側に「ただ負ける」のではなく「大きく負ける」ことを強要する。兵隊の位が異なっているのなら、特に相手が明らかな上役ならば、こうした言い回しは全く問題にならないけれど、対等な関係という、組織においてバランスを保つのが難しい状況において、「大きく負ける」ことを素直に呑むのは難しい。

同じ状況に置いて、里見が常にヘラヘラとした、いっそ財前に「ちゃん」付けで呼びかけるような人物であったなら、白い巨塔の問題は発生しなかった。財前に見逃しがあって、里見がそれを見つけたとして、「財前、お願いだからこの検査をやってくれないか?」なんて、財前の肩にでも手をかけながら頭下げていれば、必要な検査が提出されて、問題はそのまま収拾したのではないかと思う。

火が嫌いな人と、火を消すのが好きな人とがいて、同じ「消す」ことを目指しても、問題に対する態度はずいぶん異なる。火が嫌いな人は真っ先に火を消そうとするけれど、火を消すのが好きな人は、もしかしたら火を大きくする方向に舵を切る。火消しを公言する人は、火が大きくなるまで待ってしまったり、案外放火が好きでもあって、こういう人と一緒にやるのはリスクが高い。

クズには使いようがある

大ざっぱに「クズ」と「正義」がいるとして、患者さんの状態悪化を見逃した財前は人間のクズであったのかもしれないけれど、里見も等しく人間のクズであったなら、白い巨塔の物語は、そもそも起動しなかった。

「クズ」と「正義」には使いどころがある。対等な関係を作らざるを得ない場所に「クズ」と「正義」を配置すると、たいていろくでもないことになる。対等に組んだ「クズ」同士はうまくいく。同じことを「正義」でやると殺しあいになる。「正義の人」は、上司と部下しかいない、対等が存在しないところに置いて、上下を「クズ」で挟むと馬車馬のように働いて、組織全体の生産性が向上する。

白い巨塔の物語というのは、財前の失敗ではなく人事の失敗であって、同僚に恵まれなかった財前の物語であったのだと思う。

陰謀論と理解

子供の頃、テレビや漫画で描写される政治家の姿はといえば、「馬鹿」であったり「無能」であったり「金の亡者」であったり、いずれにしてもろくなイメージではなかったような気がする。何もできない子供だったくせに、政治家をどこか「見下して」いたものだから、ニュースで何が報じられても「そんなもんだ」とばかりに、そもそも政治報道に興味が持てなかった。

最近のニュース、特にネットのそれは、ずいぶんと政治報道が増えた。政治家のありとあらゆる振る舞いが報じられては、「あれは○○国を利する陰謀だ」とか、けっこう若い人が盛り上がってる。昔はネットがなかったものだから、そもそも体験の比較に意味がないのだけれど、「若い人たちが政治の話をしている」この状況そのものが、個人的には世の中がずいぶん変わったな、という感覚につながっている。

見下すことの意味

「相手を見下す」のは悪いことだけれど、肯定的な効果もあるのではないかと思う。

相手を見下して、最初から期待値を下げてかかると、至らない成果を見ても「所詮こんなもの」と思える。当初抱いていた期待と、できあがってきた「こんなもの」との間に乖離は少なく、結果としてそのことが、後ろ向きな信頼を生む。

相手に対する期待値が必要以上に高まった状況で、期待を下回る成果を目にした人は、その原因を相手の無能に求めず、何らかの陰謀に求めてしまう。相手の仕事や能力、職業の専門性に対する理解がない場合に、こうした傾向は強くなる。

田中角栄も中国の手先みたいな言われかたをされていたし、恐らくは国会議員なら、誰だってそうしたつながりから自由ではいられないのだろうけれど、今の民主党政治家みたいに、ここまで声高に陰謀が叫ばれたケースはなかったのではないかと思う。昔はネットがなかったと言われればそれまでとはいえ、こうした傾向は、成果が無惨であったこと以外に、そもそもの期待値が高すぎたことに原因があったのだろうと思う。

見下すのにはエネルギーがいる

陰謀は、期待のギャップを埋めようとして生み出される。相手を見下していれば、最初から期待のギャップが発生しにくいから、陰謀が生まれる余地をそれだけ少なくできる。

相手を見下すことは、その代わりけっこう難しい。

「政治家は馬鹿ばっかりだ」なんて口にするのは簡単だけれど、たとえば本物の国会議員が目の前に座った状況で、「こいつは馬鹿だ」と心の中でつぶやくのにはとんでもないエネルギーがいる。相手の顔を知り、距離を縮めるほどに、見下すことは難しくなっていく。

多くの人は、たぶん知らない誰かを見下すのにエネルギーを使う。高い期待と、期待を下回った成果と、そのギャップを埋めるのに「あいつは無能だった」と思うのと、「自分が知らない陰謀が働いている」と思うのと、たぶん後者のほうが消費するエネルギーが少なくて済む。陰謀論は無知だから生じるのではなく、そのほうが楽だから生み出される、遠回しな現状肯定なのだろうと思う。

いい人が陰謀を選択する

知らない人を見下すのは難しい。期待のギャップを前にした人は、見下せないから陰謀を選択することになる。

陰謀を選択する人は、社会ではむしろ「いい人」であって、万事に丸く、理性的で、喧嘩に遠いような人ほど陰謀論に毒されやすい。暑苦しく押しつけがましい、誰に対しても高圧的で、他人の意見に耳など貸さない人は、期待のギャップを前にしても、「これをやったやつは無能だな」なんて笑い飛ばして、さっさと次の話題を探しにでかける。

知識はむしろ、陰謀論を近づける。

「見下す」という動作は、相手をまずは自分の高さまで降ろして、さらにそこから下に押しつけないといけない。自身に対する期待値の低い人は見下すことが困難で、知識がありすぎる人というのは、知識の量が自身の期待値を下げた結果として、相手を見下せなくなってしまう。

勉強しすぎた人は、知識の絶対量にこそ自信を持っているかもしれないけれど、様々な分野の最高と対峙した結果として、正味の自分に対する期待値を下げてしまう。陰謀は、無知だから選択されるのではなく、相手を見下せない代償として選択される。知識の絶対量は、恐らくは陰謀を遠ざける役には立たないし、もしかしたら状況を悪くする。

理解は人を自由にする

「ある問題を解決するためにできること」を学ぶのが知識の習得であって、「ある問題をそれ以上悪くしないためにやってはいけないこと」を知ることで、ようやく理解に到達できる。

知識はしばしば人を不自由にする。相手の仕事に必要な知識を学んだ人は、当の専門家がどうしてそれをしないのか、ギャップを前に、陰謀を近づけてしまう。相手を理解することは、「あなたは案外不自由なんですね」という感想にたどり着く。結果として生まれた関係は、お互いから陰謀論を遠ざける。

知識を重ねて、どうすればそこから理解に到達できるのか。大昔、「研修医の促成栽培」というテーマにいろんな人たちが挑んだ結果として、結局近道はなかったのだけれど。

顔の見える距離について

外に対してある程度閉じた、小さな町で仕事をしていると、どうしても知った顔が多くなる。病院に来る人は、主治医に自分の情報を預けているわけで、病院の外で患者さんと出会ってしまうと、お互いどこか居心地が悪くなってしまう。

その町の本屋さんが外来に来ると、もうその本屋さんには行きづらくなる。床屋さんに行き会うと、もうその床屋さんにはいけなくなる。飲み屋さんを主治医として受け持ったとして、たとえば飲みに行った先にその人がいて、不相応なサービスもらってしまうと、もうそのお店には行けなくなって、外来で「最近来ないね?」なんて水を向けられても、「いや、忙しくて」なんて、やっぱりどこか居心地が悪い。

病院の外に知った顔が増えていくほどに、そこでできることが限られてくる。お互いの顔や名前がしっかりと見える距離感と、顔見知りであってもある程度匿名的に振る舞える距離感と、ある程度自由にやれる生活を回していくためには、両方の距離を持っていないと難しい。

水を差すと自由になれる

学生だった大昔、左翼系の全国サークルが主催する「夏の合宿」に参加する機会があった。

全国から医学生看護学生が集まって、意識の高い学生よろしく何かを作ったり、議論したり、話題はといえば、恐らくは何年もこういう合宿を主催している先輩方に誘導されたものだったのだろうけれど、場は盛り上がって、誰もが同じ方向を向いていた。

夜に入って、ご飯を囲みながら、やっぱり集まりは和やかに盛り上がって、先輩方から「あしたは○○町に平和アピールに行きましょう」なんて提案があった。医学と社会の勉強会であったはずの合宿が、いつのまにか平和運動に置き換わっていて、自分はそれが嫌だったのだけれど、すでに見知った「仲間」の顔を曇らせるのがはばかられて、どうにも反対意見を切り出せなかった。

話の流れが「全員参加で平和アピール」に傾きかけた矢先、別の学生が手を挙げた。「先輩、俺は「この会に参加すると女の子たちと思い切り遊べる」と聞いたからここに来たんです。まだ遊び足りません。明日は遊びたいです」空気を読まない、どこかとぼけた「意見」に場は笑った。平和アピールの話は自由参加になって、そのときもしかしたら、参加を提案した先輩の顔は曇ったのかもしれない。

外に対して閉じた場所で、お互いの顔や名前を見知った関係がずっと続くと、誰かの顔を曇らせるのが怖くなっていく。そんな状況で、ある空気に真っ正直に反対するのは難しくて、一度誰かが「こう」と決めた流れを変えようとすると、結果として場が割れてしまったり、喧嘩になってしまったりする。こんな状況で、固まった空気に「水を差す」ことができると、場は和んで自由が戻る。多様な意見を確保する上で、これができる人は本当に貴重だし、多様な意見を追放したい誰かにとっては、場に水を差す人は、放逐の対象になったりもする。

顔色と洗脳

NHKのニュースで、オウム真理教の事件が特集されていた。番組中、オウム側の証言者が口をそろえたように「洗脳されていた。あのときには善悪の判断ができなかった」と語っていた。

オウム真理教側の証言は、事件がもう少し新しかった昔は、「教祖のために行ったことだ」とか、「あれは救済だ。悪いことなどやっていない」とか、もう少し宗教がかった、常識の立ち位置から見て違和感を覚える言葉があったような気がする。「洗脳されていた。あのときには判断ができなかった」という言い回しは、それがどんな意図で発せられたのだとしても、悪と断じられた組織が抱える「悪い人」の数を最小限にする効果が得られる。証言を行った人たちのそれが内面の変化によるものなのか、それとも「そうあってくれ」という誰かの意志が働いた結果なのか、ちょっと知りたいなと思う。

どれだけ有能な教祖であっても、個人の力で誰かを洗脳して、無茶な行動を後押しするのはやはり難しい。危険な決断、「常識」からはありえないような危ない決定は、誰かがそう決めたのではなく、たぶん「誰もが決断しないこと」から生み出されることのほうが多い。

危険な決断は、方向としての「そういう空気」があるなかで、議論無し、決断無しで、その方向に前進した結果、止める人が誰もいないままに実行されてしまう。実行されたことは事実だけれど、そこに至るまでの過程において、恐らくは誰も議論せず、誰も決断していないから、それが失敗に終わったそのとき、そこにいた誰もが「洗脳されていた。あのときにはどうしようもなかった」と述べることしかできない。オウム真理教も旧軍も、あるいはおそらく東京電力の人たちも、そうした決定プロセスは共通しているような気がする。

災厄が予知されて、対策を指示されたにもかかわらず、対策が為されず災厄を生んで、将来的に東電の上の人たちがいろいろ口を開く機会が来ることもあるのだと思う。「どうして?」と誰かが問えば、結局のところ「洗脳されていた。仕方がなかった。判断できなかった」に連なる言葉が出てくるのだと思う。それは本音なのだろうし、悪人を作らない、他の人を悪役にしない、同時にたぶん、そこからは何も改善されない言葉でもある。

「水も入らぬ距離」を望む人

外に対して閉じた場所を設定して、お互い見知った距離を保って、個人を取り巻く匿名の殻を浸食すると、「仲間の顔」がよく見えるようになる。

そうした場では、「仲間の顔が曇ること」が恐ろしい意味を持つ。相手の顔を曇らせないよう、そこにいる誰もが「空気を読んだ」結果として、誰もが身動きを取れないまま、組織は「空気」の示す方向に暴走して止まれなくなる。

ソーシャルゲームやネットワークRPGは、仲間の顔を曇らせたくない、自分が誰かの顔を曇らせる原因になりたくないという思いを上手に利用して、課金サービスを効率よく回す。新興宗教は、どこかゲーム的な教義の構造を持っていることがときどきあって、ああいう団体が「ゲーム」を通じてお金を集めると、けっこうすごいことになるのだろうと思う。

商売を試みる側からすれば、様々な価値観を持った人が忌憚のない意見を交わす、無数の価値軸が全体として動的平衡になっている場所なんて、なんの魅力もないのだろうと思う。熱狂を期待して何かを提案しようにも、あらゆる方向から水を差されて、系全体はびくともしない。

地域のお年寄りに高額のお布団セットを売りつける人たちは、人を集めて狭い場所に押し込んで、熱狂的な空気を作って、「忌憚のない意見」を封じ込めにかかる。個人的には、それを全世界規模で行おうとしているのが実名空間のソーシャルネットワークに見える。

「顔本とかG+ で人気になった○○さん」は、それが評判になった瞬間、過去ログを掘られて未来との整合を検証される。一貫性を手放せば評判が落ちるし、流れが見えれば先が読めるから、その人からはお金が汲み出せる。評判は中立地帯を地雷原に変える。あの場で目立つのは危ないし、そういう危機意識のない人を人気者と煽る人は、自爆要員としての役割以外は期待していないのだろうと思う。

試作段階のプリウスは、遊びをゼロにした動作系に中枢を複数搭載した結果として、判断のコンフリクトを生じて、数メートルしか走らなかったのだという。お互いの結合を緩やかにして、いろんな場所にバッファを入れて、試作車はようやく走ったのだと。「停止」と「暴走」とは、系の中にいる人には一切のコントロールが効かないという部分でよく似ていて、実名のソーシャルネットワークは、あらゆる個人が遊びゼロで全部直結しているような怖さがある。

実世界にはドアや壁があって、ドア1枚を隔てたほんのわずかな匿名が緩衝になって、お互い見知った人同士が自由に考え、暮らしていける。考える人がたくさんいるから、空気が固まると水が差されて、場は柔軟さを取り戻す。

水の入る余地がない距離は身動きが取れないし、暴走すれば止まらない。それは恐ろしいことでもあるし、同時にたぶん、とても利用しやすい。そんな場所を本当に誰もが望んでいるのか、そんな場所を作って得をするのは誰なのか、考えたいなと思う。