中心は黒がいい

ずるい人は得をする。得があるから人が集まって、人の集まりが組織を作る。組織の真ん中にはリーダーがいて、リーダーはもっともずるい人だから、リーダーはたいてい、黒から始まる。

黒は仲間を増やす

黒い人のまわりに人が集まった人達も、外から見ると黒くなる。色は混ぜれば別の色になるけれど、黒にどんな色を混ぜたところで、黒はやっぱり黒く見える。

黒い人達を取り巻く誰かにとっては、そうしたリーダーが率いる組織は「ずるい」連中に見えるだろうし、ずるさと感覚される何かはたいていの場合、そのルールに対する正解でもある。「ずるい」連中は時々叩かれて、ルールは変更されるけれど、リーダーにアイデアがある限り、その場は黒く、居心地良くまとまっていく。

リーダーは「きれい事」をつぶやく

お客さんを相手にする仕事において、お客さんから見て「きれいでない」組織は成功できない。「黒い」リーダーも、「白い」リーダーも、だからみんなきれいな言葉を語って、きれいな理念を仲間と共有する。

理念には、「これをやりたい」という盛りの要素と、そのために「これはやらない」という削り要素との側面がそれぞれにある。

「黒い」リーダーは、きれいな理念の裏側で、理念の削り要素を共有しようとする。「これは削ろう」の基準を共有できたチームは、お互い持ち寄った何かを大胆に削れる。集めた何かを削った結果、「これをやりたい」という何かが達成される。

「白い」リーダーの組織には、削り要素が存在しない、あるいは削るためのルールが備わっていない。盛り要素だけで構成してしまうと、理念は好き勝手に運用される。「これをやりたい」のならば「これもやるべきだ」という論法で、誰もが好きなものを盛りはじめて収拾がつかなくなってしまう。

削る決断が誰にもできない、あらゆるものが盛られた器があふれる頃、「白い」リーダーは、「頑張って」「無駄を無くそう」と宣言する。そこにいる誰もが疲れ果て、やりたかったものがそもそも何であったのかがわから抜かった頃、白い理念はたいてい、「こんなはずではなかった」何かにたどり着いて終わる。

リーダーは白くなる

イデアには限りがある。限りあるものはそのうち枯れる。アイデアが枯渇したリーダーは、まわりから見て白くなっていく。

リーダーが「頑張ろう」という言葉を使い出したら、そのリーダーはもしかしたら白くなっている。「頑張れ」はアイデア不在の悲鳴であって、アイデアがあるリーダーは、「頑張れ」と言わずにアイデアを語る。

「頑張れ」は現場不信の表明でもある。黒いリーダーは、現場が「頑張らざるを得ない」ルールを設計して、その中で「自由にやって下さい」とやる。そうしたアイデアを持ったリーダーは、だからまわりから見て黒く写るし、黒さが支配するその場所は、案外居心地が良かったりもする。

イデアが枯渇したリーダーは漂白される。自らの白さが、アイデアの欠如を免責する根拠になる。

一度白に転じたリーダーは、周囲の黒さで自らの白さを測ろうとする。理念への同調を強いつつ現場への不信を表明することは、白いリーダーにとって、自らの白さを裏付けるための必然ですらある。リーダーが自信の白さを確認したその結果、黒い人から、役立つ人から、組織からは人が抜けていく。賛同する人が少なくなった頃、リーダーは加速度的に白くあろうと努力する。悲鳴のように「頑張れ」を繰り返して、そのうちみんないなくなってしまう。

中心は黒がいい

田舎の医療は煮詰まって、医師会や保健所から、要するに「頑張りましょう」という文書が回ってくる機会が増えた。テレビで見る政治家も、自らの白さを喧伝しつつ、「頑張ろう」を連呼する。あれは本当に恐ろしい。

ブラック企業」のリーダーは「白い」人なのだろうし、既得権や、その場のルールに上手く乗っかりながらきれい事をつぶやくリーダーは「真っ黒」なくせに、そうした組織にはいい人が集まる。黒いリーダーもまた、足下が崩れてアイデアが枯渇する未来には、きれい事が「つぶやき」から「悲鳴」に変わって、自身も白く変じてしまうのだろうけれど。

「白」が「黒」に変化するのは難しく、「黒」だっていつかは「白」になる。自分がどちらの側なのか、自身からは見えないけれど、「黒」でありたいなと思う。

来年もよろしくお願いします。