偏見を獲得すること

「使える」人、能力を持った人という考えかたは、「問題の解決にあたって実用的な偏見を獲得した人」と言い換えてもいいのだと思う。

頭の棚は便利

知識を習得する際に、「この知識はこの場所に」という、頭の中に知識の居場所を作ってから教科書にあたると、勉強が捗るような気がする。知識の居場所を作るということは、要するにその分野をあらかじめ概観することだから、これはある意味当たり前ではあるにせよ。

ある分野の勉強自体が仕事になっている人達は、誰もがたぶん、頭の中に脳内地図みたいなものを作っておいて、その地図に従って知識を格納している。教科書や論文は、知識の居場所を作らないまま、ただ漠然と読んでしまうと、せっかくの知識が頭に残らない。獲得した知識をどんなルールで配列、格納しているのか。そうした配列の考えかたを、いつ、どうやって知ったのか。配列の一番最初、「空っぽの棚」に相当するものを、頭の中にどうやって作り出したのか。勉強が得意な人達は、このあたりに何らかの工夫をしていて、まじめな割に勉強が進まない人は、恐らくは配列の考えかたを参考書にゆだねてしまう。

受験勉強を乗り切るコツとして、「参考書を読むな。問題集を繰り返せ」と説かれることがある。参考書というものは、「必要な知識を分かりやすく伝える」という問題に対峙した人が、それに最適な配列を行った知識の集積であって、その配列は必ずしも、「受験問題を解く」ために最適になっているとは限らない。

対峙する問題が異なれば、必要な配列は異なってくる。参考書から配列を学んでしまうと、だから失敗する可能性が高くなる。自分が今対峙していて、これから乗り越えていかないといけない問題はどういうものなのか。それにふさわしい配列はどんなものなのか。参考書からもらった知識は、丸暗記するのではなく、自分なりの配列で、頭の棚に並べ直さないと使えない。

勉強の効率が悪い人にとって、勉強というものは、「すでに配列された本棚ごと自分の部屋に運び入れること」に相当する。効率よく学ぶ人にとっての勉強は、「床にばらまかれた本を自分の棚に並べ直す」作業なのだと思う。最終的にできあがるのは「本の並んだ本棚」であるにせよ、その意味合いはずいぶん違う。

配列と偏見

学習とは、自らの偏見に基づいた、断片的な知識の再配列に他ならない。教科書の配列をそのまま受容することは「暗記」であって、学習とは違う。偏見を持たない人は、裏を返せば学べない。

漠然と読んだ知識は、居場所がないから残らない。あらかじめ知識の居場所を作っておいて、「この知識は、この知識と関連づけて、脳内地図のこの番地に置いておこう」という態度で教科書や論文を読むと、読んだ分だけ知識が残るし、漠然と読むよりもスピードが上がる。

「偏った」人と、「勉強が得意な」人との差異は、ある問題を解決するにあたって、それぞれが獲得してきた偏見が役に立つのかどうかで決定される。偏見に優劣は存在しないし、問題が変わればもちろん、「使える人」の居場所に立つ顔ぶれも変わってくる。

極めて偏った目線でものを見る人は、学習の効率がいいとも言える。何を見ても「どうせこうだろう」という目線が全く動かない、「学べない」人というものは、逆説的に、学習の速度が恐ろしく速い人でもある。柔軟さは大切だけれど、恐らくは柔軟さと学習速度とはトレードオフの関係にあって、「偏見無く柔軟に」頑張った人は、結局学べないのではないかと思う。