顔の見える距離について

外に対してある程度閉じた、小さな町で仕事をしていると、どうしても知った顔が多くなる。病院に来る人は、主治医に自分の情報を預けているわけで、病院の外で患者さんと出会ってしまうと、お互いどこか居心地が悪くなってしまう。

その町の本屋さんが外来に来ると、もうその本屋さんには行きづらくなる。床屋さんに行き会うと、もうその床屋さんにはいけなくなる。飲み屋さんを主治医として受け持ったとして、たとえば飲みに行った先にその人がいて、不相応なサービスもらってしまうと、もうそのお店には行けなくなって、外来で「最近来ないね?」なんて水を向けられても、「いや、忙しくて」なんて、やっぱりどこか居心地が悪い。

病院の外に知った顔が増えていくほどに、そこでできることが限られてくる。お互いの顔や名前がしっかりと見える距離感と、顔見知りであってもある程度匿名的に振る舞える距離感と、ある程度自由にやれる生活を回していくためには、両方の距離を持っていないと難しい。

水を差すと自由になれる

学生だった大昔、左翼系の全国サークルが主催する「夏の合宿」に参加する機会があった。

全国から医学生看護学生が集まって、意識の高い学生よろしく何かを作ったり、議論したり、話題はといえば、恐らくは何年もこういう合宿を主催している先輩方に誘導されたものだったのだろうけれど、場は盛り上がって、誰もが同じ方向を向いていた。

夜に入って、ご飯を囲みながら、やっぱり集まりは和やかに盛り上がって、先輩方から「あしたは○○町に平和アピールに行きましょう」なんて提案があった。医学と社会の勉強会であったはずの合宿が、いつのまにか平和運動に置き換わっていて、自分はそれが嫌だったのだけれど、すでに見知った「仲間」の顔を曇らせるのがはばかられて、どうにも反対意見を切り出せなかった。

話の流れが「全員参加で平和アピール」に傾きかけた矢先、別の学生が手を挙げた。「先輩、俺は「この会に参加すると女の子たちと思い切り遊べる」と聞いたからここに来たんです。まだ遊び足りません。明日は遊びたいです」空気を読まない、どこかとぼけた「意見」に場は笑った。平和アピールの話は自由参加になって、そのときもしかしたら、参加を提案した先輩の顔は曇ったのかもしれない。

外に対して閉じた場所で、お互いの顔や名前を見知った関係がずっと続くと、誰かの顔を曇らせるのが怖くなっていく。そんな状況で、ある空気に真っ正直に反対するのは難しくて、一度誰かが「こう」と決めた流れを変えようとすると、結果として場が割れてしまったり、喧嘩になってしまったりする。こんな状況で、固まった空気に「水を差す」ことができると、場は和んで自由が戻る。多様な意見を確保する上で、これができる人は本当に貴重だし、多様な意見を追放したい誰かにとっては、場に水を差す人は、放逐の対象になったりもする。

顔色と洗脳

NHKのニュースで、オウム真理教の事件が特集されていた。番組中、オウム側の証言者が口をそろえたように「洗脳されていた。あのときには善悪の判断ができなかった」と語っていた。

オウム真理教側の証言は、事件がもう少し新しかった昔は、「教祖のために行ったことだ」とか、「あれは救済だ。悪いことなどやっていない」とか、もう少し宗教がかった、常識の立ち位置から見て違和感を覚える言葉があったような気がする。「洗脳されていた。あのときには判断ができなかった」という言い回しは、それがどんな意図で発せられたのだとしても、悪と断じられた組織が抱える「悪い人」の数を最小限にする効果が得られる。証言を行った人たちのそれが内面の変化によるものなのか、それとも「そうあってくれ」という誰かの意志が働いた結果なのか、ちょっと知りたいなと思う。

どれだけ有能な教祖であっても、個人の力で誰かを洗脳して、無茶な行動を後押しするのはやはり難しい。危険な決断、「常識」からはありえないような危ない決定は、誰かがそう決めたのではなく、たぶん「誰もが決断しないこと」から生み出されることのほうが多い。

危険な決断は、方向としての「そういう空気」があるなかで、議論無し、決断無しで、その方向に前進した結果、止める人が誰もいないままに実行されてしまう。実行されたことは事実だけれど、そこに至るまでの過程において、恐らくは誰も議論せず、誰も決断していないから、それが失敗に終わったそのとき、そこにいた誰もが「洗脳されていた。あのときにはどうしようもなかった」と述べることしかできない。オウム真理教も旧軍も、あるいはおそらく東京電力の人たちも、そうした決定プロセスは共通しているような気がする。

災厄が予知されて、対策を指示されたにもかかわらず、対策が為されず災厄を生んで、将来的に東電の上の人たちがいろいろ口を開く機会が来ることもあるのだと思う。「どうして?」と誰かが問えば、結局のところ「洗脳されていた。仕方がなかった。判断できなかった」に連なる言葉が出てくるのだと思う。それは本音なのだろうし、悪人を作らない、他の人を悪役にしない、同時にたぶん、そこからは何も改善されない言葉でもある。

「水も入らぬ距離」を望む人

外に対して閉じた場所を設定して、お互い見知った距離を保って、個人を取り巻く匿名の殻を浸食すると、「仲間の顔」がよく見えるようになる。

そうした場では、「仲間の顔が曇ること」が恐ろしい意味を持つ。相手の顔を曇らせないよう、そこにいる誰もが「空気を読んだ」結果として、誰もが身動きを取れないまま、組織は「空気」の示す方向に暴走して止まれなくなる。

ソーシャルゲームやネットワークRPGは、仲間の顔を曇らせたくない、自分が誰かの顔を曇らせる原因になりたくないという思いを上手に利用して、課金サービスを効率よく回す。新興宗教は、どこかゲーム的な教義の構造を持っていることがときどきあって、ああいう団体が「ゲーム」を通じてお金を集めると、けっこうすごいことになるのだろうと思う。

商売を試みる側からすれば、様々な価値観を持った人が忌憚のない意見を交わす、無数の価値軸が全体として動的平衡になっている場所なんて、なんの魅力もないのだろうと思う。熱狂を期待して何かを提案しようにも、あらゆる方向から水を差されて、系全体はびくともしない。

地域のお年寄りに高額のお布団セットを売りつける人たちは、人を集めて狭い場所に押し込んで、熱狂的な空気を作って、「忌憚のない意見」を封じ込めにかかる。個人的には、それを全世界規模で行おうとしているのが実名空間のソーシャルネットワークに見える。

「顔本とかG+ で人気になった○○さん」は、それが評判になった瞬間、過去ログを掘られて未来との整合を検証される。一貫性を手放せば評判が落ちるし、流れが見えれば先が読めるから、その人からはお金が汲み出せる。評判は中立地帯を地雷原に変える。あの場で目立つのは危ないし、そういう危機意識のない人を人気者と煽る人は、自爆要員としての役割以外は期待していないのだろうと思う。

試作段階のプリウスは、遊びをゼロにした動作系に中枢を複数搭載した結果として、判断のコンフリクトを生じて、数メートルしか走らなかったのだという。お互いの結合を緩やかにして、いろんな場所にバッファを入れて、試作車はようやく走ったのだと。「停止」と「暴走」とは、系の中にいる人には一切のコントロールが効かないという部分でよく似ていて、実名のソーシャルネットワークは、あらゆる個人が遊びゼロで全部直結しているような怖さがある。

実世界にはドアや壁があって、ドア1枚を隔てたほんのわずかな匿名が緩衝になって、お互い見知った人同士が自由に考え、暮らしていける。考える人がたくさんいるから、空気が固まると水が差されて、場は柔軟さを取り戻す。

水の入る余地がない距離は身動きが取れないし、暴走すれば止まらない。それは恐ろしいことでもあるし、同時にたぶん、とても利用しやすい。そんな場所を本当に誰もが望んでいるのか、そんな場所を作って得をするのは誰なのか、考えたいなと思う。