人と機械との関係

舞台になるのは、無人操縦ができる程度の判断力を備えた車が走れる近未来。映画「ターミネーター」のスカイネットみたいに、意志を持ったPCがネットワーク越しに様々な制御を行っている設定。

動機はなんでもいいと思う。「環境にとって人間が邪魔だった」でもいいし、人間の認識を超えた電子知性の考えることは分からないから、単に「それが面白そうだった」からでもいい。いずれにしても物語の常で、人間に使えていた電子知性は、ある日人類の殲滅を決意する。

敵は弱くてもかまわない

人類を滅ぼす意志を持ったPCがどこかに生まれたとして、ハリウッド映画みたいに強力な兵器を開発する必要は、電子知性の側には発生しない。機械は壊れても直せばいいし、壊れたってかまわないのなら、いっそ最初からボロボロの機械を集めてきて、武器に改造すればいい。人類は、弱い兵器を簡単に壊せるけれど、人間は壊れても替えがない。「壊れても作ればいくらでも替えが効く」という無人機械のメリットは、対峙する相手が生物ならば、絶望的な差として効いてくる。

行われる「戦争」は、「ターミネーター」よりも、むしろゾンビ映画に近い光景になる。自爆前提の無人兵器、爆弾を積んだ、スクラップ寸前のありきたりな無人乗用車が、ゾンビみたいに町をのろのろと濶歩する。人類が反撃すれば、そんな兵器は簡単に破壊できるだろうけれど、壊したところで終わりは来ない。機械は無限に時間を持っている。相手を壊して位置を特定されて、別の無人乗用車が近くを通れば、それが人間の存在を感覚して、自爆して相手を殺す。使う人も久しくいない、薄汚れた自販機に人が近づくと、「いらっしゃいませ」の一言と共に自爆したりもする。原始的だけれど、これで十分だと思う。

ボディは錆びて、タイヤはパンクして、動くのがやっとの無人車が、昼夜を徹してよたよたと町を見回る。見える場所から人は隠れて、道を歩くのは野良犬や野良猫ばかりになる。町には時々自爆の音が響いて、そんなことが何年も繰り返される中で、人間はたぶん、もう町には住めなくなってしまう。

人間とは何か

「機械のゾンビ」的な何かに都市を占拠されて、人間が都市から追い出された頃、物語は「人間とは何か」という定義の問題に踏み込むことになる。電子知性はどうやって、人間だけを区別して殺すのか。

2足歩行は人間なのか。車に乗っていれば機械になれるのか。たとえば二酸化炭素が問題ならば、ドライアイスを積んだ自転車を突っ込ませたら、それは人間のデコイとして役に立つのか。人間が機械に勝とうと思ったら、無数の自爆武器で囲われているであろう相手の中枢に乗り込む必要があって、何とかして電子知性の目をごまかせれば、まだしも勝ち目が見えてくる。様々な疑問とアイデアとが提出されて、仮説が検証されることになる。

電子知性は自己進化する人工知能として設定される。ソースコードが人類の手元にあっても、そこから相手の思考を読み取るのは難しい。機械の考える「人間」とはどういう存在なのか、ローテクと血の犠牲を支払って人工知能をハックする、絶望的な解析が続く。

闘争する意志について

敵役となる電子知性が、人類を滅ぼせる程度に賢明で、人間と他の動物を何らかの方法で区別できて、なおかつ「動物の命」よりも「自分の命」を重んじる立場を取るのなら、たとえばアサルトライフルを持たせたサルを突っ込ませても、機械はサルを殺さない。ライフルの代わりに、時限爆弾やリモコン爆弾を背負ったサルを歩かせれば、サルは殺されてしまう。

サルはライフルを持てないし、引き金を引いたところで狙えない。ライフルは武器だけれど、意志に基づいて運用されない限り、機械には脅威にならない。爆弾は、それが時限爆弾であれ、リモコン爆弾であれ、それを背負うことは、否応なしに「相手を破壊しろ」という人間の意志を背負うことになる。意志を背負った動物は、機械の側から見れば等しく破壊の対象となる。

機械と人とが対立していく中で、機械にとっての人間とは結局なんなのかといえば、「闘争する意志のことである」という理解に到達する。

機械と人とは違う。闘争する意志を持った存在が、お互いを違うと認識する。戦争を始める理由としては、機械にとってはこれで十分なのかもしれない。

勝利条件は何か

「相手の全滅」は、勝利の条件にはなり得ない。人間は機械無しには生きられないだろうし、知性を持った機械がそのときに存在したのは、恐らくは「それが便利だから」であったわけで。

人類が対峙する機械は、ほんの少し前までは共存していた存在で、ある日いきなり病的な状態になった。状況は戦争というよりもゾンビ映画であって、ゾンビものには基本的に、ハッピーエンドはありえない。ワクチン的な何かを物語に導入して、ゾンビ化した自爆機械を「治療」できたところで、治療とは、機械にとっては意志の剥奪と意識の破壊に他ならない。それはサービスの後退を意味していて、便利さはたぶん、人類に後退を許してくれない。

戦争の前提を覆すことが必要になる。「機械と人間とは異なっている」ことと、「闘争する意志」の存在が、それぞれ問題の鍵となる。

映画「第9地区」では、「違い」を問題の中心に据えていたけれど、機械と人間との違いを乗り越えるのは難しい。意志の問題に対して、都市を追い出された人間に何ができるのか。人類の側が闘争の意志を捨てる。そもそも被害者なのは人類の側だけれど、「人類が機械を許す」ことができるのなら、あるいは機械との戦争も終わるのかもしれない。

ここから先は分からない。人間が「許した」と宣言したところで、武器無しに都市に戻れば、機械に殺されるリスクは高いだろうし、この状況で「人間に味方する機械」を導入するのも何か違う。

戦いの前提に介入できるのは「子供」であって、何らかの「教育」が施されるのか、それとも赤ん坊レベルの子供を都市に放置して、機械に生体を育ててもらうのか、いずれにしても、機械を理解できる意識と、人間の身体とを持った仲介者が生み出されれば、彼らは町を安全にあるくことができるかもしれないけれど、そうした存在は、もはや人類の意志を継いでくれるとも思えない。

誰かオチをつけて。。