惰力と能力

最後には絶対的な壁が立ちはだかるにせよ、能力の不足というものは、「惰力」で補うことができるのだと思う。

自らの意志で判断したり、決断を行って成功する人はかっこいいけれど、自ら動くあのやりかたは、正解に遠いというか、成果に支払うリスクが必要以上に高いような期がする。リスクを取って、たまたま生き延びることに成功した人は、こうしたやりかたを正しいと断じるだろうけれど、「いい惰性」の中に身を置いて、惰性の中でだらだらと行動した人が、気がついたら成果にたどり着いていたケースは、たぶん世の中ではずっと多い。

勉強会の昔

今でも時々、試験前の夢を見る。

恐らくは大学生だった昔が舞台で、試験は目前に迫っている。自分はといえば試験の準備もできていない、講義にもろくに出席していないものだから、内心はとても焦っているのだけれど、勉強するわけでもなく、何か好きなことに没頭するわけでもなく、夢の中ではいつも、自宅で本など読みながら、一人ゴロゴロしている。

期日が近いということは理解しているのに、自分には実際のところ、試験日がいつなのか、そもそもどんな教科書で試験の準備をすればいいのか、それがすでに分からない。調べればいいことなのに、夢の中ではいつも、自分にはなぜかそれができない。

余裕なんて全くない、むしろ今すぐにでも援助を受けないと危機的な状況にあって、なぜだか自分は余裕があるふりをして、内心は焦りつつも、なんの情報を得ることもなく、ただただ時間だけが過ぎていく。妙に居心地はいいのだけれど、その余裕にはなんの根拠もないどころか、状況が刻一刻と悪くなっていくなか、自信はなぜか確信に変わって、勉強机はますます遠ざかっていく。

ある日突然勉強をする気になって、心機一転、友人の誰かに試験の日程を尋ねる。自分は内心、試験まではあと2ヶ月ぐらいと見込んでいて、今からでも必死に勉強すれば、今までだらだらと「貯めた」エネルギーを使って挽回できると踏んでいたのだけれど、試験はもう、あと4日後には行われる予定になっていて、試験の範囲は莫大で、そもそもたぶん、問題集はおろか、教科書をさらっと流すのだって難しい。このとき初めて、「自分にはもう選択肢がない」という事実がのしかかってきて、頭を抱えて目が覚める。

医師国家試験の準備をしていた昔、先輩方からは「とにかく勉強会を始めなさい」というアドバイスをいただいて、国試のだいたい1年ぐらい前の頃、自分たちは勉強会を始めることにした。大きな目標を立てるわけでもなく、すばらしい熱意を持った誰かが会を率いたわけでもなく、とりあえず定期的に集まって、だらだらと問題集を解いていた。

国家試験の準備は面倒で、読み終えなくてはいけない参考書の量は膨大で、これを一人でこなすのは絶対に無理だと思ったけれど、自分に割り当てられた分量をこなさなければ他のみんなに迷惑がかかる。「友人に叱られたくない」という、えらく後ろ向きな理由で勉強はそれでも進んで、夢にでる程度には大変であったにせよ、国家試験は無事に終わった。

仲間がいると上手くいく

「いい惰性」の中に身を置くことで、能力の足りない人でも、能力以上の場所に連れて行ってもらうことができるのだと思う。

自分が卒業したのはいわゆる「受験校」だったけれど、何か特別な教科書が使われるわけでもなく、先生がたから「勉強しろ」などと怒鳴られるわけでもなかった。その場ではまわりがなんとなく勉強していて、勉強している連中もまた、なんとなく勉強していた。そうした「なんとなくの連鎖」が進学校の強みであって、自分もなんとなくそうしなくてはいけないような気になって、それなりの勉強量をこなすことになった。

受験校の合格率が高い理由は、結局のところ「そういう空気がそこにあるから」に尽きるのだろうと思う。そこで提供されるコンテンツの品質よりも、「そういう空気」の存在が、成果を大きく左右する。

最近読んだ 「はじめてでも安心 コスプレ入門 」という本には、何よりもまず「仲間の作りかた」が紹介されていて、興味深かった。

趣味の本はたいてい、まずはその領域を極めた人達のすばらしい成果が紹介されて、「頑張ればこんな作品を作れます」という文章が続く。この本ではむしろ、まずは読者にも簡単にできるやり方の紹介、そのあとすぐに、コンテストや展覧会への参加、そのときのマナー、移動の際に荷造りをどうするのか、持って行くと便利なものはなんなのか、実用的な知識の紹介が続く。

最高到達点を読者に紹介するやりかたは、読者をその趣味へと誘うための試みだけれど、最高到達点のすばらしさを楽しんだ読者は、もしかしたらその趣味をあきらめてしまう。読者が自らの手を動かさないと始まらない領域だと、なおのことたぶん、最高到達点のすばらしさは、趣味を続ける動機付けには貢献しにくい。山を紹介する際にはたぶん、「頂上のすばらしさを語ってみせる」やりかたと、「山道をとにかく歩き出す」やりかたとがある。本当に山に登ってみたい人にとっては、頂上のすばらしさを語る人よりも、もしかしたら実用的な歩きかたを教えてくれる人が役に立つ。

空気とリスクについて

災害のときにはたいてい、勇敢な人達が現れる。自らの命を省みることなく、恐ろしい状況にあって、それでも冷静に事態に対処して、奇跡的な成果を生み出してみせる。こうした人達は、勇敢な決断の元に超常の力を発揮したわけではなくて、むしろ恐ろしい状況にあってもなお、「そういうものだから」という空気に従った結果、異常な状況で普段訓練したとおりの成果を成し遂げられたのではないかと思う。

自らがおかれたリスクを正しく評価して、リスクと利益の分岐を見極めた上でリスクを取れる人は、きっとそんなに多くない。その一方で、「まわりがそうしているから」、危ない橋を、あたかもリスクなんて無いかのように渡ってみせる人は、たぶん多い。

専門家としての訓練を受けた人であっても、未知と対峙したときの振る舞いは、結局のところ無知を根拠に置くことでしか決定できない。「今まで大丈夫だったから」前に進む人もいるかもしれないし、「今まで大丈夫だったけれど」分からないから避ける人もいる。どれだけの数字を積んでも、資料を積んでも、最後はたぶん、物事はその人の周囲にある惰性で動く。

最近、今さらながら123便のフライトレコーダー記録を聞いた。旅客機パイロットという、高度に訓練された専門職とは言え、あれだけの状況で、よくも最後までパニックに陥らずに通信ができたものだなと思った。あの冷静さはもちろん、旅客機を操縦していた人達の職業意識が極めて高かったことに尽きるのだろうけれど、通信していることそれ自体、あるいは全ての会話が常に記録されているというあの状況は、極限にあって人間を強引に冷静にさせる力があるのではないかとも思えた。

震災当日、原発災害対処のまっただ中で、まず真っ先に放棄されたのが議事録だった、という逸話を想像した。議事録を手放すことと、そこにいる人が冷静さを手放すこととは、たぶん等しい。通信が生きていること、録音されていることは、結局のところ、「空気の力に人を強引に同調させる」こと以外の何者でもないにせよ、録音機をそこに置くだけで、逃げ出しそうな人はそこにとどまり、叫び出しそうな人は冷静になり、アイデア不在の破綻状況にあって、そこで立ち止まって冷静に対処する人が出現する。

惰力と能力のこと

「田舎の神童」には受験校なんていらないし、受験校で勉強した人間以上の成果に、彼らは易々と到達して見せたりもする。それでも「神童」は少ないし、目的が異なれば、受験勉強から国家試験の勉強へと目的が変化すれば、彼らだって勉強会の力を借りる。

「そういう空気」を生み出すやりかたはたいていが後ろ向きで、根本的な解決が好きな人からは叩かれる。「そんなものは必要なかった」という反例はたくさんあるだろうし、場が目指した方向に、その場の空気を無視したことで大成功した人もたくさんいるのだろうけれど、空気の力で惰力を得、能力以上の成果に到達できた人もまた、きっと黙っているだけで、それなりの数はいる。

天才のひらめきが成し遂げた成果の総和は、無数の凡人が結集した惰力による成果よりも、もしかしたら少ないのだと思う。

「そんな空気」はどうやって作るのか、惰力を効率よく伝播する環境とはどういうものなのか。「いい惰性」に身を置きたいなと思う。

今年もよろしくお願いします。