根暗な報酬のこと

ある日のテストが60点で、頑張って次回80点取れた子供がいたとして、その子はたぶん、「20点増えた」という喜びと、「20点分見下せる奴が増えた」という、根暗な喜びとを、報酬として体感することになる。

努力や頑張りの報酬には、明るく表明できるものの裏側に、必ず根暗な何かがセットになっている。人を誘ったり、説得するためには、もちろん「明るい報酬」を前面に出さないといけないのだけれど、報酬には、常に根暗な側面がセットになっていて、そのことに自覚的でないと、どこかで上手くいかなくなるような気がする。

「明るい報酬」は希望を生むけれど、「根暗な報酬」は、自意識の地盤を固める。脆弱な地盤の上に、希望のお城を打ち立てて見せたところで、お城が大きくなるに連れて、いつかは地盤ごと、お城が倒壊してしまう。

自尊心の不足で疲労する

新しい学問だとか、仕事を立ち上げるときにけっこう大切なのは、「そこで働く人が自尊心を保てるための論理」なのではないかと思っている。

たとえば救急医療とか、総合診療部というのは比較的新しい学問領域で、専門別に分かれていた今までの病院では、このあたりがしばしばおろそかになっていたから、一時期ずいぶん人が増えた。その領域には需要がちゃんとあるはずなのに、せっかく人が集まったのに、すぐにチームが解散してしまったり、こうした分野は、大成功した話をあまり聞かない。

救急医療は、たしかに仕事はハードだけれど、休みはそれなりに確保できるし、疾患も多様で、やりがいみたいな「明るい報酬」要素もきちんとそろっているのに、医師が疲れてしまう。こういうのはたぶん、「仕事がきついから」疲れるのとは別に、そこで働いていても、自尊心が摂取できないから疲れてしまう要素というのがあるんだと思う。

地域の大きな公立病院は、昔はまさに基幹病院で、地域施設の「親」として、その場所に君臨していて、医局に送られてくる勤務希望リストの上位は、いつもこういう病院だった。救急の体制が、救急の体制が整備されて、患者さんの受け入れは、昔ながらの「お願い」から、公立施設の「義務」みたいなものへと変わって、細い声で「お願いします」なんて頼んでた電話依頼は、「ご苦労さん。また一つ頼むよ」なんて、元気で張りのある声に変わった。同じ頃からたぶん、公立の基幹病院からは、勤務希望の声も減っていったのだと思う。

地域基幹病院の崩壊が叫ばれて久しいけれど、待遇みたいな「明るい報酬」をどれだけ増やしても、事態はそんなに変わらないのだと思う。状況が変わって失われたのは、もっと根暗な報酬であって、そういうものは、議論の場所に提出されることはないだろうから。「根暗な喜び」をお金で買うこともできるんだけれど、それはしばしば、恐ろしく高価についてしまう。

自尊心を摂取できる場所

たとえば「手術しかできない外科医」という人を仮想すると、その人は手術をすることから、自尊心を摂取できる。その人がたとえば、心電図一つ満足に読めないことだとか、自分がこれから手術を行う、その疾患について、内科のほうが詳しかったとしても、内科が「手術をお願いします」と頭を下げるかぎり、自尊心は傷つかない。自尊心という根暗な報酬は、「誰かに頭を下げられる」ことから発生する。誰かに「お願いです」と乞われるかぎり、その人は仕事が続く。

ところがたとえば、総合診療部の先生がたは、もしかしたら自尊心を摂取する機会が乏しいのではないかと思う。

総合の人たちが何か珍しい疾患を見つけたとして、専門外来から「もうあとやるからいいよ」なんて返事をもらうと、自尊心が少し傷つく。「先生達診断だけだから楽しいでしょ」なんて言われたりすると、たぶんもっと傷つく。そういわれるのは誰だって嫌だから、たとえば治療に手を出して、「余計なことしないでいいよ」なんて言われてしまうと、たぶん自尊心は折れて、もう戻らない。

総合の人たちがならばと必死に勉強して、たとえばある分野の専門家よりも知識が豊富になったところで、実際に患者さんと対峙して、「専門的な」判断を下すのはやはり専門家のほうだから、自尊心は摂取できない。総合医は何でも診療できるその代わりに、その人でないと、専門家の側から、「お願いします」という頭を下げられる状況というものが発生しない。一生懸命勉強を頑張ったところで、それは沼地にお城を建てるようなものだから、知識を積んで、積み上げて、ある日専門家から「この患者さんはだいたい落ち着いたから、あとは総合の先生でお願い」なんて逆紹介受けて、お城は崩れてしまう。

「自分たちはこの仕事のどこから自尊心を摂取できるのか」という問題は、下らないんだけれど、下らないからこそ、一番最初に、徹底的に考えないといけないのだと思う。

外からは口に出しにくい、下手すると「ない」ことになっている根暗な何かをきちんと作り込んだ場所には、人が集まって、長続きする。そういうみっともないお話をスルーして、自分の居場所を美談で飾ると、そこは沼地に花をまいたような場所になる。花畑はきれいでひとが集まるんだけれど、みんな泥まみれになって、疲れて沈んでしまう。

根暗な報酬について

たとえば将棋盤を液晶ディスプレイにして、将棋を指しているその真下で、無修正のアダルトビデオを放映したら、たぶん普通の人は将棋に集中できない。プロ棋士クラスの人ならともかく、普通の人が、ならばと将棋をどれだけ頑張ったところで、アダルトビデオに打ち勝つのは難しい。感情の根っこに近いものに目をつぶりながら、もっときれいなものをどれだけ鍛えても、そういうものはやっぱりなくならない。

学界の重鎮レベルにまで大成功した人は、たまに年を重ねたら急に進路を変えて、よく分からない民間療法の広告塔になったりする。ああいうものもまた、「お城が崩れた瞬間」を見ているのだろうと思う。明るい報酬を摂取する横で、きちんと根暗な報酬を摂取してきた人は、恐らくはそのまままっすぐ進む。ある意味「まじめな」生きかたを貫いて、根暗な喜びの摂取を怠ってきた人たちが、あるいはもしかしたら、引退したとたんに報われない気分がどっと押し寄せて、希望のお城を崩してしまうんだろう。

大きな家は、堅固な地盤に建てないと崩れてしまうし、お城みたいに巨大な建物を造ったところで、泥沼みたいな地盤が固まることはあり得ない。自尊心という、「根暗な報酬」が摂取できない状況をそのままにして、やりがいだとか、患者さんの笑顔だとか、あるいは金銭だとか、もっときれいで正しい報酬をいくら上乗せたところで、あるいはその人は満足できないし、その人の満足には結びつかない。

何かの努力を積むときには、副次的に生まれるであろう「根暗な喜び」というものから目をそむけないで、そういうものをこそ、きちんと摂取したほうがいいのではないかと思う。