ドッグフードを食べる

コンピュータープログラムを開発する人たちには、開発途中の未完成なプログラムを無理矢理使って仕事をする 時期というものがあって、それを「自分のドッグフードを食べる」なんて表現するらしい。

自分が今作っているものは、コンピュータープログラムほど複雑なものではないし、やっていることは、 開発というよりは「切り貼り」のほうが近いのだけれど、とりあえず出来上がったものは、 やっぱり「ドッグフード」であって、使いやすいものを目指すには、それを自分で食べないといけない。

使って分かったこと

今回作った「テトリスみたいな鑑別診断表」は、たぶんそこそこ見やすいような気がする。

患者さんがいて、症状を抱えていて、特定の疾患を狙ったわけではないけれど、とりあえず何かの検査結果が その人にくっついているという状況は珍しくなくて、とくに地域で開業している先生がたから紹介された患者さんは、 たいていの場合、たくさんの検査結果を抱えたまんま紹介される。

表を使うと、無目的に提出された検査を使って、消去法みたいなやりかたで鑑別診断を絞り込むことができて、 特定の病気に近づくだとか、あるいはもっと広い鑑別診断を探しに行くだとか、1枚の表を、複数の目的に 使い回すことができる。

こういう表はその代わり、表の中に、相当広い範囲の鑑別診断を放り込んでおかないと、怖くて使えない。

病気というのは、2割の病気が全体の8割を占める構造をしているから、2割を知っていれば、たしかに8割に対応できる。

ところが鑑別診断が問題になってくるケースというのは、2割の自明な疾患は、そもそも考慮の対象外に なっていることが多くて、診断表は、想定していたよりもずっと広い範囲で鑑別診断を一覧できないと、 例外が多すぎて役に立たなかった。結局全部書き直した。

被ツッコミ耐性について

何か大きな規模の文章を作るときには、「総論」と「各論」を分離しておくこと、医療なら「病名」に当たる、 ひとかたまりになった知識の「置き場所」をきちんと定めて、それを文章内部で相互参照できるようにしておくと、 あとからいろいろ突っ込まれたとき、訂正が簡単になる。

未完成な「ドッグフード」を同僚の先生がたに読んでもらって、 「内容には全く賛同できないけれど趣旨は良く分かる」なんて 叱られながら、いろんなところを直してもらうこの頃。

これをやるとき、せっかくいただいたツッコミに対して、文脈上直せない場所を作ってしまったり、 あるいは考えかただとか、結論が彼我で分かれる場所が生じたとき、文章の任意の場所を、 自由に切り離せるようにしておくと、「直し」を受け入れやすい。

膨大な前書きがまずあって、そのあと前1/3を「総論」が占めて、さらに各論が続くような構造を作ってしまうと、 専門家の先生がたも、いちいち「前書き」から読まないといけないから面倒だし、総論にツッコミを入れると、 巻き添えを喰って各論が1章丸ごと消し飛んだりすることがある。

全ての章立てを「症状」ごとにするやりかたは、どこを消し飛ばされても全体の構造が揺らぎにくいので、 いろんな先生がたから叩かれながらも、叩かれたぶんだけ、いい方向に進めやすいような気がする。

ドッグフードが料理になる日

とくに「総合診療」なんて科目を志す人たちは、遠回りかもしれないけれど、やっぱり自分の教科書を 作るべきなんだと思う。

何かそういうものを文章にして持っていると、自分が今何を知っているのか、どの分野に詳しくて、 どの分野に疎いのか、他科の専門家から見て、その詳しさだとか、疎さというのは、どの程度 客観性があるものなのか、いろいろ指摘をいただけて、面白い。

今自分が作っているものは、たとえばこれをルーズリーフに両面印刷して、ファイルに綴じると600円ぐらいかかる。 誰か上の先生に読んでもらうときには、もちろん新品を渡して赤を入れて貰うわけだけれど、 いくつかの添削を貰うために、いちいち1冊潰すのは無駄なようでいて、「他人様の意見が500円足らずで買える」 というのは、ものすごく安い買い物をしているのだと思う。

誰かの意見を「買う」というの、はすごく難しい。お金を払って講義を聴いても、それは万人向けの内容であって、 講師の人が自分の「穴」を埋めてくれるのとは、ずいぶん違う。話を聞くだけならタダ、なんてことは全然なくて、 意見をもらう対価として、自分で何か書いて、印刷から製本から全部自前というやりかたは、 面倒なようでいて、たぶん支払ったコストに十分見合うだけのものが得られるような気がする。

今のPCは早くなったし、LaTeX はやっぱり有用だよ、と一応勧めておく。