はじまりの物語

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 というWeb 小説を読んだ感想文。以下、「まおゆう」と略す。

学ばなくても社会は回る

自分は今でこそ、経済の視点を絡めた文章を時々書いているけれど、2005年頃までは、経済学に興味がなかった。

経済学の入門書だとか、教科書なんかに手を出したのはここ数年で、数年かかってようやく、何となく「経済学的な」ものの見かたみたいなのが身についた。それが学問としてどこまで正しいのかは、ちゃんと学んだわけじゃないから、検証のしようがないのだけれど。

2006年頃、ネット上ではいろんな人たちが経済を語っていたし、経済学的な視点というものの実例は、当時からいくらでも目にすることができたけれど、それを学んでみたいだとか、経済の視点で世の中を眺めて、果たして何が見えてくるのか、そういう想像も働かなかった。現代社会はすでに経済の考えかたで回っていて、回っている現状を眺めることに満足しているかぎり、今さら裏側を見たいという欲求は、なかなかわいてこなかったから。

自分にとっての経済学とは、「経済を語る人たちと仲良くなるための手段」だった。ネット上で面白い文章を書いていた人たちは、たいていみんな、経済学的な視点で物事を語っていて、入門書みたいなものを紹介していた。会話の輪に加わるために、渋々教科書を手に取って、それが面白いと思えて、さらにはそんな視点で世の中を眺められるようになるまでに、そこからさらに、ずいぶん時間がかかった。

実世界では「そもそも」を語れない

どの学問分野でもそうなんだろうけれど、その学問の言葉で、「そもそも」を語るのは、案外難しい。

何か世の中を動かすのに必要な学問があったとして、その知識は世の中のインフラにがっちりと組み込まれてしまっていることが多い。この状況で、学問の、社会での役割を語ったところで、そもそもどうしてその学問が必要なのか、どういう不便があって、そういう知識が要請されたのか、読者にそれを理解してもらうことは難しい。

たとえば経済学の教科書を読むと、導入部分に書かれているのは商売の話題であったり、需要と供給の話題だったりするんだけれど、それはすでに経済が前提として使われている状況であって、読者の腑に落ちる「そもそも」とは、ちょっと違う。

「そもそも」なんて知らなくても、学べば学ぶほどに知識は増えて、試験に通ったり、資格を取ったりする分にはそれで十分なのだけれど、そういう学ばれかたはしばしば、ろくでもない結果を生んでしまう。

努力は一人歩きする

学びはたぶん、「そもそも」から導入しないと歪む。「これは正しい、ありがたいものだから、まずは黙って学べ」をやると、学んだ苦労それ自体が、いつしか学問に対する確信に変わってしまう。「そもそも」抜きでの学習は、それを積むほどに、「こうでなくてはならない」という思いばかりが強くなる。

不幸な学びかたをした人は、学問というものが持っていた本来の役割、「この先はどうなるんだろう」とか、「どうしてこうなるんだろう」という疑問を乗り越えるための道具であったことを、しばしば忘れてしまう。間違っていないという思い込みは、今度は例外を切断していく。「そもそも」がないところに努力だけ積んでしまうと、学んだことに疑問を感じる理由がないから、努力をするほどに、その人は頑なになる。実体と、学んだこととにずれがあっても、学んだことを疑えないから、ずれた結果を前にしても、「もっときちんとやれば」みたいな、形容詞ばかりが増えていく。

「そもそも」を語るためには、それが存在しなかった社会を仮想して、ある知識や学問がそこに生まれることで、初めて見えた「向こう側」の世界を語るのが、たぶん望ましいやりかたなのだと思う。

それが国語算数理科社会であっても、経済学であっても、だからそれがなかった昔を想像して、それが生まれて初めて見えた「向こう側」の物語というのは、きっと必要なんだと思うその知識がなかった状況から、それを学んだ先にある「向こう側」へ、そこに行くにはそもそも何が必要なのか、あらゆる学びの最初の一歩は、やっぱりここから始めないといけないし、そういう導入部分みたいなものは、物語として語られるのが望ましいんだと思う。

「まおゆう」 で語られる世界、戦争で混乱した、殺しあいの連鎖を行うことでしか社会を維持できない、未来の見えないその状況にある「向こう側」を目指すために、剣や魔法でなく、経済学という武器を頼った魔王と勇者の物語というのは、経済学を学ぶ上での導入として、とても分かりやすいような気がした。

学校で教わらない大切なこと

道徳の授業では、 「これは悪いことだ」とか、「これはいけない」と教えられる機会は多かったし、「どうしてそれがいけないのか」も、たしか先生が教えてくれた。でも、「どうしてそういう悪いことが、それでも世の中では普通に行われているのか」を教えられる機会はなかったし、それを教えるのは、きっと難しい。

「争いはいけない」と教える物語は多い。けれど、「どうしてそれでも、人は争わざるを得ないのか?」という説明を試みている物語として、「まおゆう」は新鮮な体験だった。このあたりは普通、悪役の野心だとか、なんだか悪そうなオーラで、お茶を濁されていることが多かったから。

物語は、順調な滑り出しと、明るい未来を予感させる序盤から、社会がどんどん大きくなって、主人公達の手に負えないものへと変貌していく終盤へ、迷走していく。登場人物は、必ずしも正しい道筋を選択できるわけではないし、努力や決断はしばしば裏目に出る。

迷走を続ける社会を、「向こう側」にある未来へと進める役割は、剣と魔法の世界にあって、特別な能力を持たない「普通の人」に託される。

軍人や商人、貴族といった、魔王から経済学の考えかたを学んだ人たちが、物語世界の中で、「向こう側」を目指して様々に迷走する。正しい決断も多いけれど、彼らだってもちろん、経済を学びはじめたばかりの人々で、「自分ならこう判断するのに」みたいな思いを抱く場面もたくさん登場する。読者として彼らの振る舞いを眺めているうちに、いつしか自分自身もまた、軍人として、商人として、貴族として、登場人物の目線で、いろんな判断に参加していて、ちょっと驚く。

共感したのは「損得勘定は我らの共通の言葉。 それはこの天と地の間で二番目に強い絆だ」という、魔王の言葉。

自身の利益を追いながら、それでも剣でなく、握手を求めて世界を奔走した普通の人たちの物語として、これはぜひとも、いろんな人に読まれてほしいなと思う。

Twitter では、作者の橙乃ままれさんと、ゲームデザイナーの桝田省治さんとが中心になって、この物語を出版するための議論が行われている。インターネット上のテキストが、企画を得て、商品化に向けた戦略が考案されて、物事が前に進む、これ自体がもう一つの「まおゆう」を見ているようで、とても面白い。