悪い知識は大切

道徳は大切だけれど、道徳的な人間を生み出そうと思ったときに、道徳だけを教えたのでは片手落ちなのだと思う。道徳というものは、不道徳な「悪い知識」を土台にすることで、初めて堅固な力を持てる。

道徳の効用

理念や道徳というものは、「手続きに従えば簡単に扱える人間」を作る手段として役に立つ。

道徳を、道徳単体として「正しいものだ」と習った人は、道徳的に基づいて何かを促されると逆らえないし、よしんば法律に違反するようなことを命じられても、それが「道徳的なのだ」と強弁されると、高い可能性でそれに従ってくれる。

他人を陥れる方法や、欺瞞を運用して誰かに特定の振る舞いを強要する方法を教わった人は、人を操作するための手続きを見破ることができる。こういう知識を持った人は、運用された道徳から自由でいられて、結果としてたぶん、道徳や理念はどういうものが好ましいのか、自分の頭で考えられる。

どちらの人間がより好ましいのか、仕事や立場によって様々だろうけれど、世の中には少なくとも2種類の教育手段が存在して、人の性格はずいぶん異なってくる。

たとえばカルト宗教にはまるのが悪徳であったとして、「カルトは悪徳だから耳を貸してはいけない」と教えると、逆説的に信者を増やす。「耳を貸してはいけない」と教わる人は、防御のすべを知らないから、怖いもの見たさでカルトに近づくと、抜け出せなくなってしまう。カルト教祖が使う技術を解説して、それを観察して楽しむよう促すと、みんながカルトを観察した結果として、カルトの教祖はもう、教祖でいられなくなってしまう。

信者の知識と教祖の知識

新興宗教に入信した人は、お互いの信仰を競うことになる。教祖の教えにより深く傾倒した人が、信仰を深く理解していることになって、競争を勝ち抜いた人は、兵隊の位が上がる。

新興宗教の教祖になるような人は、たいてい別の教祖に学ぶ。その人の教義を学ぶのでなく、教祖としての振るまいかたや教えの広めかた、教団のまとめかたや、教義に入れておくと便利な教えを、教祖の観察を通じて学ぼうとする。

信者の作りかたと教祖の作りかたは全く異なって、信仰が熱心になるほどに、逆説的に、教祖の椅子は遠ざかっていく。新興宗教だけでなく、あらゆる業界に、「教師から学ぶ人」と、「教師を見て学ぶ人」とがいて、学びの先に到達する場所は、お互い異なってくる。

教祖と信者とがいる組織から、ある日教祖がいなくなってしまうと、信者は迷走してしまう。

教祖を観察するような人は信者として不真面目で、教団の上位に居場所がないし、教団の教えに深く傾倒していた人には、教祖の代わりを務めるのは難しい。教祖の技術を失った教団は、テープレコーダーのように教えを機械的に繰り返すかもしれないし、あるいは「教祖の技術」を習得した誰かを捜して、教団を離れる人が出てくるかもしれない。

教祖を失った組織はたいてい、「純化を目指す人」と「裏切り者」とに分断されて、純化を繰り返していく中で、教団は衰退していく。

今の政府は迷走しているけれど、あれは何となく、「教祖としての学び」を会得した人が誰もいない状況で、「まじめな信者」の集まりが右往左往しているように見える。信仰が深い人というのは間違いなく「まじめ」ではあるけれど、それを運用する人がいなければ、どれだけまじめに教義を極めても、結果にはたどり着けない。

悪い使いかたは大切

知識には「いい使いかた」と「悪い使いかた」とがあって、学んでいく中で、「いい使いかたしか学べない」学問というのは、ありかたとしてどこかにゆがみを抱えている。

医学知識は悪用可能だし、たいていの工学知識も同様で、生産のプロはたいてい、同じ技術で破壊のプロにだってなれる。いい使いかたを学んだ結果として、必然的に悪い使いかたを習得することになる、あるいは深く学んでいく上では悪い知識が欠かせないのが技術であって、「いい使いかたを一生懸命学びました。私は善です」という人は、だからまだ学んでいないのだろうと思う。

「本物のプログラマは、その言語でその言語自身を破壊するコードが書ける」のだという。自分たちは普段、技師さんたちとおしゃべりをするときに、「この病院を破壊するとしたらどうする?」なんて話題を出す。専門ごとに、思いもよらなかった脆い場所を教えてくれたりして、各科の文化を学ぶいい機会になる。

どれだけ堅固に見えるものにも弱い場所がある。技術に通じた人は、弱い場所の突きかたも、回避のやりかたにも通じている。「この技術は完璧だから安全対策など必要ない」と突っぱねた原子力技術の人たちは、そういう意味で「本物の技術者ではなかった」のだろうし、たとえば松下政経塾のような政治家を養成する施設が、、誰かを陥れる方法や安全な賄賂のもらいかた、公衆の面前で誰かを侮辱するときの作法といった「悪い技術」を教えていないのならば、あの場所で教えているのは技術ではないんだと思う。

沼の上にお城は建たない

たとえば政治家には、「政治屋」に必要な知識と「政治家」に必要な理念とがある。どこで足をすくわれるのか分からない政治の世界にあって、そこにしっかりと立ち続けられる「政治屋」としての能力を地盤にして、初めてたぶん、「政治家」としての思想や言葉が生きてくる。

強固な地盤に大きなお城を建てる義務はないし、「地盤だけあって何もしない」というありかたも、処世術としては一応理にかなう。ところが「巨大なお城を沼地に作れば、沼が堅固な地盤に変化する」ことがありえないのと同様に、「政治家」としての思想や理想がどれだけ高くても、手続きの瑕疵は理想の高さで穴埋めできない。

高邁な思想に基づいて、正しさに邁進していることは、ちょっとしたお手つきを無視できる理由にならない。プラスとマイナスとが相殺できるのは、数学みたいなごくごく特殊な分野で許された例外であって、プラスをいくら積んだところで、作ってしまったマイナスは、実社会では二度と消えない。こんな感覚が、恐らくは「屋」としての常識であって、それを学ばないで「家」を目指した人は、どこか転ぶともう起き上がれないし、そもそも自分がどうして転んだのか理解できないから、任せると同じ失敗を繰り返す。

医学部では昔、「素晴らしい医師になりなさい」と教わったけれど、何をやると「素晴らしくない」のか、どういう状況からトラブルが生まれて、それをどうやれば回避できるのか、そういうのは習わなかった。

相性の悪い患者さんとは普段以上に丁寧に応対しないとトラブルになる。将来お世話になるかもしれない研修医には、罵倒しないで丁寧に接する。看護師さんにはへりくだっておくと、いざというとき味方になってもらえる。こういうくだらない知識を蓄えて、10年ぐらい病棟で生き延びると、外面だけはそこそこ道徳的な医師として振る舞える。これを道徳で教えると、「厳しい代わりにやることはやるぜ」なんて俺道徳持ち出す医師が地雷を踏んで、味方がいない状況で自爆した結果として、吹き飛んで、たいてい二度と戻ってこない。

「屋」の要素と「家」の要素と、たぶんあらゆる専門職種にこうした分類があって、「家」の高みを目指すのならばなおのこと、地盤となる「屋」の要素に通じていなくてはいけないのだと思う。