親の目線について

謝罪というのはもちろん、本来は失敗と紐付けられないといけないのだけれど、謝罪という行為、あるいは誰かから怒られるという状況それ自体が、問題の解決と紐付けられている人というのが、たぶん社会には、一定の割合でいるんだろうと思う。

昔は怒られた

小学生の頃は、怒られることというのは「みそぎ」になっていた。酷い嘘をついて、なにかをごまかして、それがばれたら、とりあえずそこいらにいる大人から怒られて、泣かされたら、両親はそれで許してくれた。問題は全然解決されていないんだけれど、そこから先のことは、大人が考えてくれた。

子供の頃は、周りを見渡せば「雷オヤジ」という役回りの人がいて、子供を叱って、殴るふりして、子供が怖がって首をすくめたら、ガハハと笑って、問題はそれで終わったことになった。

子供というのはけっこうしたたかだから、「ガハハ」が3回も繰り返されたなら、誰もが手段としての嘘泣きを獲得できる。頭の回る子供ほど、大人が「嘘怒り」してたら、それを見抜いて、処世術としての「嘘泣き」というやりかたを、最善の方法として身につける。

泣いてみせることを、反省を表明する手段でなく、単なるダメージコントロールの手段であると看破する優等生は、きっと多いんだろうと思う。

問題の解決は大変

嘘をついて怒られて、親御さんから「問題の解決」を求められた子供というのは、いるものなんだろうか?

怒られて、泣いたらそれでおしまいというやりかたは、問題の解決にはつながらないし、教育上、それはたぶん間違ったやりかたですらあるけれど、たとえば自分は、こういうやりかたで、しつけられたような気がする。怒られること、その時間に耐えることが、嘘の対価というか、問題解決と等価であると、子供の頃は理解していた。両親はもちろん、そんなつもりはなかったんだろうけれど。

たとえそれが嘘泣きであっても、そうした「頑張り」を無条件で肯定する、結果が出なくても、「頑張ったボク」を肯定してくれる、嘘で状況が悪くなっても、その代償として、「怒られる時間」を耐えられれば、それで問題が解決したことになる、そういう価値観を植え付けられた子供は、きっと多いのだろうと思う。

こういう教えかたは間違っているし、本来はたぶん、嘘をついた子供を見つけたら、子供自身の責任で、問題の解決を促すやりかたが正しいんだろうけれど、正しいやりかたは、難しい。子供だって、できないからこそ嘘をついたのだろうし、問題の解決を、子供に任せるのならば、今度は大人が、子供をずっと見守っていないといけない。これはとてもエネルギーがいる。

正しいやりかたと、楽なやりかたがあって、どちらも同じ「教育」とか「しつけ」という看板がぶら下がっていたのなら、けっこう多くの割合で、楽なやりかたが選択される。恐らくはだから、叱って泣かして問題を解決したことにする、「みそぎ」の方針で子供を育てた親御さんというのは、一定の割合でいるんじゃないかという気がする。

嘘泣きは大人になっても通用する

問題に突き当たって、とりあえず親に相当する大人を捜して、そっちの方向を向いて泣いてみせれば、たいていの問題は、大人が解決してくれる。

実社会に出れば、こういうやりかたは通用しそうにないけれど、職業によってはたぶん、「嘘泣き」は、問題解決の万能手段として、相当な高齢まで通用してしまう。

たとえば自分の場合は、卒業してから5年目ぐらいまで、恐らくは30歳の手前ぐらいまで、職場では「嘘泣き」が、問題解決の手段として、理論上通用したと思う。

仕事の間は、常に上司が監督していたし、もちろん「自分で考えろ」と発破をかけられたけれど、責任が重たい仕事だから、最終的には全ての判断について、上司が責任を肩代わりしてくれたし、間違った判断が為されていれば、そこで訂正してくれた。こういう状況ならば、上司がいる場所で「考えろ」と言われたところで、自分で考えても、嘘泣きしながら「分かりません」なんて泣きだしても、仕事の結果には、恐らくは差が出なかった。

今はもちろん1人主治医で、病棟で何かトラブルを起こしたところで、自分でそれを何とかできないかぎり、問題は解決しない。

自分がこういう状況に置かれたのは、研修していた病院から、離島に飛ばされたときが初めてだったと思う。その頃には変な自信がついていて、自分はたぶん、何でもできるなんて思っていたのに、離島で1人、その時になって初めて、点滴一つ自信を持って処方できないことに気がついて、呆然となった。

今思うとあのときが、「ママがいなくなった」初めての体験だったんだろうと思う。

総理はどうなんだろう

「謝れば親が許してくれる」状態というのは、たぶん職種によっては、もっと年次が進むまで通用してしまう。

沖縄で、総理がなんだか、わざわざ怒られに行くためだけに、問題の解決を狙うには、ずいぶん外れたタイミングで沖縄入りしたのを見て、子供の頃のことを思い出してた。

あれは何となく、沖縄の人を説得しに行ったのではなくて、単に怒られに行ったように思えた。「怒られれば両親が何とかしてくれる」という価値を信じている人にとっては、怒られることそれ自体が、大人を呼ぶための、問題の解決それ自体を意味しているのだろうから。

子供を「みそぎ」ポリシーで育てた人たち、怒って見せて、子供が泣いて謝って、それで問題が解決したことにしている親御さん達は、沖縄の人から怒られている総理を見て、案外あれで、「みそぎは済んだ」と見なす人がいるんじゃないかと思う。それを否定して、「問題は全然解決されていない」なんて怒るのはダブルスタンダードだし、国防とか、地政学とか、みんな言うほどには感心ないだろうし。

社会にはたぶん、「親の目線を持った人」と、「親の目線を当てにする人」とが、一定の割合で存在する。

「親の目線を持った人」にとっては、問題の解決とは、「子供が泣いて許しを請うこと」であって、問題の解決それ自体は、もしかしたら意味を持たない。基地の問題がグダグダになったことと、首相が自ら焼き鳥になってみせたことと、両者に交換可能な価値を見出す人が、たぶんけっこうな割合でいる。

一方から見れば、総理の振る舞いは、全く無意味なようにも見えるし、反対側の、「親の目線」を持った人から見ると、自ら火中に飛び込んで怒られる、まさにその行いこそが、解決しない問題を購う価値を持っているように見える。

良き親でありたい人たちから見て、総理の振る舞いというのは、だからそんなに矛盾がないのだろうし、誰かがじゃあ、問題を解決して見せたところで、それはもしかしたら「子供のくせに生意気」な振る舞いに見えて、必ずしも支持に結びつかないような気がする。