「これはこういうものなんだ」体験のこと

まだ運転免許証も持ってなかった学生の頃、夕方遅く、すでに乗用車を乗り回していた同級生の 「トヨタカローラ」に乗っけてもらった。

昔も今も、カローラは「あって当たり前」を目指してる車であったはずなのに、 ダッシュボードに光るメーターと、田舎の夜景とが重なって、なんだか一瞬、 その光景がSF映画にダブった。

「要するに、乗用車を持つということは、どこにでも行ける自分だけの空間を持つということなんだ」なんて、 一人勝手に納得がいって、その時初めて、車というものが心からほしくなった。

ゲーム機のこと

「快適さ」というパラメーターにも、住宅みたいな階層構造があって、 「地盤の脆弱性」みたいな下位レベルの問題を、たとえば「家具の配置」みたいな上位レベルでの努力では 取り返せない。

据え置き型のゲーム機は、やっぱり昔ほどには売れていないらしい。ファミリーコンピューターの時代から見れば、 今のプレイステーションなんて夢の機械になったのに、そこでどれだけ魅力的なソフトを販売しても、 「ゲーム機のある場所に行って、スイッチを入れる」という工程から、据え置き型ゲーム機は自由になれない。

携帯ゲーム機だとか、携帯電話が当たり前になっている世代の人たちにとっては、 たぶんゲームとか、インターネットというものは、「思い立ったらもうそこにあるもの」だから、 そういう人たちにとっては、「ゲーム機のある場所に行く」という一手間が、どうしようもない「地盤の脆弱性」 に見えてしまう。

内装をどれだけ立派にしたところで、基礎がグラグラの家には人が住まないように、 据え置き型ゲーム機がどれだけ高性能に進化したところで、携帯電話世代の人たちを、 据え置き型ゲーム機の世界に引っ張り込むのは難しいんだと思う。

動作の意味を書き換える

たぶん「○○は、要するに○○なんだよ」という原体験が、自動車でも、据え置きゲームでも、 携帯ゲームでも、あるいはインターネットでも、あらゆる「メディア」に存在するのだと思う。

デスクトップPC から入った人と、iモードが当たり前にあった世代の人とは、 同じ「インターネット」というメディアを挟んで、しばしば話が通じない。

「寝室から3歩歩いて電源を入れる」ことなんて、モデム接続の昔を知っている人から見れば、 今のやりかたは「進歩」なのに、携帯電話世代の人から見れば、それはたぶん「基礎の脆弱性」に思えてしまう。

見えかたが異なれば、同じ一手間が「進歩」にも見えれば、「致命的な欠陥」にも見える。 恐らくはだから、「これはこういうものなんだ」というメディアの見えかたみたいなものを書き換えれば、 欠点は欠点でなくなるし、意味の書き換えができなかったメディア、 あるいはそれを怠って、代わりに「高性能化」の方向に舵を切ったメディアというのは、 業界ごとしぼんでしまうのだと思う。

こうなってほしい

  • たとえば「自動車」というメディアには、「コンテンツ生成装置」になってほしい。どこかに行くこと、 移動することそれ自体が、インターネットに文章を書くのと同じような、「発信」になるような
  • 乗用車はたぶん、単なる移動の手段であった昔から、一時期はコミュニケーションの手段というか、 個人の考えかただとか、社会的な立場を表すための手段として普及してきた時代があった
  • 今の「自動車離れ」という現象は、たぶんネットというコミュニケーション手段が生まれて、 「表現手段としての自動車」という場所が、インターネットに浸食されてしまったからなんだと思う
  • トヨタ自動車みたいな、業界を牽引する会社は、だから日産やホンダを相手にしてはいけないし、 「高性能な車」なんて作っちゃいけないんだと思う。むしろ「移動という意味」だとか、「乗用車である意味」みたいな ものを書き換えて、Amazon みたいなコンテンツ販売業者だとか、 mixi みたいなコミュニティが持っている「メディアの意味」を、率先して浸食していくべきなんだと思う。
  • メディアには縛りがある。そこを「乗り越える壁」としてでなく、「長所」として前に押し出せないメディアは滅ぶ
  • 自動車が「移動」、「実世界にあるどこか」にしか行けない、ということに縛られるように、 携帯電話はたぶん、「実際の知りあいとしか会話ができない」ということに縛られる。 もちろん技術的には十分可能だけれど、全然見知らぬ他人と毎日何百人も会話するなんて、 電話を使った音声コミュニケーションだと、ちょっと考えにくい
  • コミュニケーションという機能は、だから「電話の束縛」なのであって、より広いコミュニケーションを志向する方向に作り込んだら、携帯電話はしぼむ気がする
  • たとえばこれが「ネットワークRPG」なんかだったら、全然知らない人と、その場で「戦友」になれたりだとか、 見知らぬ他人が何百人も集まって、ネット世界でお祭り開いたりだとか、実世界とは比較にならないぐらい、 広いコミュニケーションが行える
  • 「携帯ゲーム」はたぶん、「コミュニケーションに新しい意味を与える道具」となって、 携帯電話の意味を浸食していく。携帯電話はコミュニケーションに縛られると、たぶんゲーム機に喰われてしまうから、 むしろ「実世界」という縛りを生かして、「実世界に別の意味を付加する道具」になってみたり、あるいは 「実世界の知人としか会話ができない」という縛りを生かして、「個人を実世界ネットワークに接続する道具」を 目指すべきなんだと思う
  • たとえばそれは、携帯電話の「目」を通じてお店を見れば、「ここの店員最悪」とか、「○○ランチは頼んじゃダメ」とか、 そういうタグがたくさん見えることであったり、あるいはまた、誰か友人から電話が入ると、自分の居場所、 相手の居場所、自分が今ほしいものとか、自宅の冷蔵庫にある野菜一覧みたいな情報も同時に送信されて、 「そこにいるなら、ついでに○○買ってきて」みたいな会話がその場できるような機能であるとか
  • 据え置きゲーム機は、高性能になって、異世界を細部まで作り込むのが、結果として得意になった。 異世界というのは「ここでないどこか」であって、「ここでないどこかに行く」という行動の先には、 たぶん「海外旅行」がある
  • 海外旅行という体験は、視野から聴覚から、あらゆる体験が、普段なじんだ世界と置き換わる。 実世界なんだけれど、そこはなじんだ空間とは別の場所で、「ここでないどこか」を体験したくて、 たぶんみんな海を越える
  • 「感覚を全部別の何かで置き換える」メディアを作れば、それは海外旅行というメディアを 浸食することができる。 「顧客の視野を全部乗っ取る」ことを、 すごく大規模にやって見せたのがディズニーランドで、たしかあの場所は、 顧客から見える風景というのをすごく大切にして、他の風景を巧妙に隠したり、 建物に錯視の原理をとり入れたりしている
  • 「感覚を全部乗っ取る」こと、日常世界との断絶を演出することが、 ゲームの次を想像するときには必要で、個人的にはやっぱりドームディスプレイがほしい。 以前サンシャインプラネタリウムで見た、ドーム映画の没入感には、本当にびっくりしたから
  • たとえば全周スクリーンのあらゆる方向から、人間ぐらいの大きさのゴキブリの群れに囲まれて、 足下見下ろせば子供の腕ぐらいはあるヒルがびっしり、絶望して天井見上げたら、 上には巨大なクモの口が…なんて体験ができたら、子供さんの一生の思い出になると思う
  • 「一般家庭にドームを置く」ために、今度はまた、据え置き型ゲーム機は、別の何かを浸食しないといけない。 WiiFit が、「家庭に板を置く」ために、ライバルとして体重計を想定したように、 家にあっても不思議じゃない、「ドームっぽい何か」を置き換えるような
  • こういうのはたぶん、「スーパーマーケット」だとか「病院」だとか、そういうものもあまねく「メディア」なのであって、 自らの「こういうもの」という意味に、みんなもっと自覚的になると、世の中きっと面白くなる