不便が強みになる

お金というものは、 「説得力のある不自由」を提案できた人に対して支払われる者なんだと思う。

消費者にとっては、便利になるほうがもっとありがたいのだけれど、便利からはお金が逃げていく。

売るものだとか、情報それ自体の価値というものは、もちろん粗悪品よりも良品のほうがうれしいけれど、銭勘定だけを考える上では、恐らくは「良さ」というものには、それほど大きな意味はないのだと思う。

情報は自由になりたがる

情報は自由になりたがるけれど、自由からはお金も逃げていく。

物から自由になった、純粋な情報に近い、インターネット上のテキストだとか、アプリケーションは、それ自体からお金を得ることが、しばしばとても難しい。

情報が便利になればなるほどに、お金はそこから逃げていく。裏を返せば、情報という物に、何かの不自由を付加したものがメディアであって、不自由を付加されて、初めてその情報は、お金に紐付けられるのだと思う。

消費者に、説得力のある不自由を提案で気は人は、お金が得られる。

情報に、同時性だとか、そこにいないといけないという不自由をくっつけると、それはライブだとか講演会になる。インターネットで文章を公開するよりも、講演会に参加する人は少ないだろうけれど、講演会はしばしば、文章を書く人たちの、貴重な収入源になっている。

情報が、紙という不自由と結びついたものが本であって、昔はこれよりも自由な物が他になかったから、本は莫大な富を生み出した。

PCでインターネットという、自由な情報を扱う上での、ほとんど正解に近い媒体が生まれて、情報は本当に自由になったけれど、自由になって、お金はそこから逃げた。

クリック一つで海賊版がダウンロードできる世の中で、わざわざお金を支払って、面倒な制限がついた正規品を購入する人の動機は道徳であって、道徳は、お金を払う根拠としては弱い。「どうしてお金を払う必要があるの?」なんて疑問が消費者からでるような場所では、もう商売なんて成り立たない。

電子書籍に対抗する方法

昔ながらの出版社が、電子書籍メディアを滅ぼそうと思ったならば、新刊の海賊版を、電子データとしてさっさと流してしまえばいいのだと思う。

電子書籍はたしかに便利で、クリック一つでその場で本が購入できるし、本屋さんだとか、取り次ぎの人たちを回する必要がないから、本の価格も安くできる。

便利さの競争を行うならば、紙メディアと電子メディアと、だから対抗するのはどうしたって難しいけれど、お金というのは不便と結びついている。

漫画本は絵を見れば分かるからなのか、世界中で海賊版が出回っていて、今はもう、発売されてから3日もすれば、どこかで海賊版が出回った、なんて話が伝わってくる。日本語の小説は、そういう意味では海賊版を欲しがる人の絶対数が少ないだろうけれど、電子書籍が普及する前の段階で、「電子は無償」が当たり前になってしまったなら、もう電子書籍というメディカらは、お金が生まれない。

こういうのは焦土作戦で、紙のメディアだってダメージを受けるだろうけれど、紙の本を買う人は、たとえ電子の海賊版が出回ったところで、やっぱり紙の本を買うだろうから、被害はたぶん、電子出版の人たちよりは少なくて済む。

「電子は無償」が、書籍の分野でも文化になってしまったなら、もう電子出版というメディアでは、誰も食べていけなくなる。そこでプロとして食べていく人は、そうなると紙のメディアにとどまり続けるだろうから、電子書籍というメディアは、もう脅威でなくなってしまう。

競合潰しのフリー戦略

「フリー」戦略というのは、「無償」という意味でも、「もっと便利」という意味でも、いずれにしても競合殺しの武器として使うのが正しいんだと思う。

「フリー」という本の中では、情報を自由にすることで、結果としてみんなが幸せになりました、というケースがたくさん挙げられていたけれど、正しいタイミングで流された海賊版は、競合する相手の生態系を枯らしてしまう。

これだって一種のフリー戦略なのだろうし、「みんなが幸福に」なった、フリー戦略の成功例として取りあげられているやりかたにしたところで、たぶん「みんな」に含まれていない競合者は、「フリー」に潰されて、その場所で生きていけなくなっているのだろうと思う。

たとえば「電子はフリー」というカードが切られたとして、電子メディアを応援する人たちは、それでも電子書籍リーダーを購入するだろうし、それは間違いなく便利な道具になのだろうけれど、「もっと便利な海賊版」を真横に置かれると、その便利さは説得力を失ってしまう。

海賊版はもちろんルール違反で、それに手を出すのは悪いことだけれど、今はなんだか、支払いの逆転現象みたいなことが、いろんな場所で起きている。

Warez なんて言葉があった昔は、違法改造したソフトだとか、海賊版を扱えるのはPCに相当詳しい人しかいなかったのに、今では逆に、PCに詳しい人たちが、あれ買った、これ買った、というのを日記に書く一方で、九州の校長先生みたいに、PCに強いとは思えないような人たちが、おっかないP2P に手を出して、真っ黒な動画をコレクションしてたりする。

「便利であること」それ自体は、たぶんそのメディアにとっての弱点であって、それを脅威に感じて対抗するやりかたは、むしろ墓穴を掘っているのだろうと思う。