「普通の人」に向けたサービスのこと

恐らくは「便利であること」それ自体には、お客さんは魅力を感じないのではないかと思う。

「便利さ」に価値を見出すのは、新しいものに飛びつくのが好きな、ごく一部の人であって、 お客さんの多くは、便利であることよりも、「自分が真ん中にいる」感覚を共有することを好む気がする。

2つの入り口を持つ料理屋さん

うちの近所にあるショッピングモールに「ドリア専門店」と「石焼き鍋専門店」とが入っていて、2つのお店は、中で厨房を共有している。

お店はモールの角地にあって、図面上はたぶん、「角地にある大きな店舗」なんだけれど、中を仕切ってあって、「三角形に分かれた2つのお店」に改造してある。お客さんは、ドリアを食べたければドリアの門に、石焼きビビンバを食べたければ石焼きの門にそれぞれ入って、お互いの行き来はできないようになっているんだけれど、バックグラウンドでは、同じ厨房で、いろんな料理が作られている。

そこは要するに、「暖めれば出せるもの」をたくさん冷蔵で用意しておいて、学生アルバイトを雇って、火にかけた品物をお客さんに供給しているだけなんだけれど、保存が利くからなのか、メニューの数はけっこう多い。それぞれのお店で、「ドリア」と「鍋」と、だいたい20種類ぐらいずつ。

お店はだから、その気になったら「40種類の料理を出す大きな店」にすることもできたんだろうけれど、そのお店は、あえて仕切りを入れたのだと思う。

普通の人の普通の楽しみかた

恐らくは「普通のお客さん」は、典型的な楽しみかたをしたい。

たとえば異国のお祭りに迷い込んだところで、「普通の人」はたぶん、それを楽しめない。異国なんだから、何を見たって珍しいのだし、自分が面白いと思ったものを楽しめればそれで十分なんだけれど、普通の人にとってはたぶん、「自分が楽しい」ことよりも、「みんなと同じ楽しみかたができた」と納得することのほうが、もっと大切。

40種類のメニューを持った大きなお店は便利だけれど、そのお店を、普通の人が、じゃあどういう楽しみかたをしたらそれが「典型」なのか、大きなお店は分かりにくくて、たぶんお客さんは、「普通に楽しんだ」満足感を味わえない。

賑やかでなんだか楽しそうなんだけれど、どこから楽しめばいいのか分からない、こういうのはたぶん、「楽しみたいように楽しめる」ような、「強い」人には居心地いいんだろうけれど、「普通の人」は、たぶんマニュアルを渡されて、それをなぞって「はい楽しんだよね」って言われないと、楽しいとは思えない。

「顧客から見た風景をシンプルにして、分かりやすい楽しみかたを提供する」ことが大切なのだと思う。「何でもあり」を楽しめる少数に向けたサービスは、どこかでしぼんでしまうような気がする。

ニコニコ動画が複雑になった

ちょっと前のニコ動は、好きな単語を検索して、再生数の多い動画を楽しんで、タグをたどって面白そうな動画を探して、大体みんな、そんな風に楽しんでいたみたいだったから、安心だった。

今はなんだか、「いわゆるニコ動」以外にも、生放送とか大百科、コミュニティ、いろんな楽しみかたが提案されて、それぞれ連携して、便利になって、多様になって、結果として、「自分はたぶん真ん中を楽しんでいる」なんて、そんな安心感が遠くなった。今までどおりに遊んでいるのに、なんだか不安な気分。

これが文化祭とか、あるいは実世界でのイベントなら、たとえば「順路を回る」とか、「好きな歌手のコンサートを聴く」とか、主催者側はたいてい、「典型的な楽しみかた」というのを提示する。お祭りを楽しみたい人は「祭の正門」をくぐるってパンフレットを受け取るだろうし、コンサート目当ての人は、たいていは看板が立っていて、中庭のステージ前で待機していれば、そこでコンサートを楽しめる。

「普通の人」はたぶん、自分がそこを楽しむよりも、むしろ「みんなと同じ」を志向して、びくびくしながら「群れの真ん中」を探す。「いつも真ん中」感を提供しようと思ったなら、だから「たくさんの選択肢」を提供するよりも、むしろ「たくさんの門」を提供して、「つながり」は、バックグラウンドで提供したほうがいいような気がする。

今みたいな「何でもあり」の賑やかな入り口ページは、やっぱり難しい。

たとえば「いわゆるニコ動」を楽しみたい人なら、Google みたいな検索窓と、カテゴリーごとのタグで十分だし、「ニコニコ生放送」を楽しみたい人に向けたページなら、やっぱりそれはテレビの延長なんだから、入り口ページを開いたそのとたん、「世界の生放送」が勝手に始まるぐらいでちょうどいいんだと思う。コミュニケーションのページなら、そこはmixi そっくりのページレイアウトでいいわけで、たとえそこでやりとりされるのが動画サイトの話題とはいえ、コミュニケーションを提供するページからは、あえて動画を隠すぐらいでいいんだと思う。

ページを開いて、開いたそのとたん、「どうすれば典型的に楽しめるのか」が視覚的に提供されて、はじめてたぶん、普通の人は「楽しみかた」を理解できて、理解を提供できないサービスは、それがどれだけすばらしいものを提供していても、やっぱりどこかで天井に突き当たる気がする。

あくまでも「自分が典型的な普通の人」であることが前提での印象なんだけれど。