メディア化とロボット化

TRIZ の考えかたには、「技術進化には方向性がある」という考えかたがあって、「一般化」と「微細化」、「不可視化」というものが、 代表として挙げられていた。どんな技術であっても、こちらの方向に進化していくことで、人間の振るまいが勝手に進化して、 人が幸福になるような方向に変わっていくのだと。

こうした考えかたは、ずっと正しいと信じていたのだけれど、最近はむしろ、「メディア化」と「ロボット化」という流れが、 これから来るんじゃないかと考えてる。

メディア化

たとえば車というものは、あれは「人が移動する」という本来の機能に、「その場所の情報を提供する」という機能を加えることで、メディア化できる。 視界がえらく賑やかになるし、見せかたを間違えると事故になるけれど、今走っている場所がどういうところなのか、 その近所にはどういうお店があるのか、ディスプレイにそれが刻一刻と表示されることで、移動という行為は、 情報摂取の機会にもなる。

「メディア化」という流れを一般化すると、「人が何かの情報を得ようと考えたときに探しに行くもの」が、 自ら積極的に情報を出してくるような機能を付加することなのだけれど、たとえば冷蔵庫はメディアになる。

肉や野菜に国家規格のRFID タグを付けるだけで、冷蔵庫は、「今自分が持っているもの」を表示することが出来る。 クックパッド連動にすると、「今冷蔵庫にあるもので作れるもの」を、使用期限が近い順に表示することも出来るし、 冷蔵庫自身が、「これがあるともっといろいろ作れます」という、推奨お買い物リストをはき出すことも出来る。

それがテレビなら、あれはたしかにメディアだけれど、たいていの人はたぶん、「何か面白いもの」を探してテレビを付ける。 12チャンネルあるテレビのボタンを押すこと自体、これは探索という行動だから、「何か面白そうな番組」というボタンを一つ作って、 たとえば2ちゃんねるの実況板だとか、mixi のどこか好きなコミュニティで、今盛り上がっている番組を自動的に選んでくれる機能を くっつけると、「メディア化したテレビ」というものが出来上がる。

こういうのを「うるさい」と感じるか、「便利」と感じるかは人それぞれだろうけれど、 「うるさい冷蔵庫」だとか、「面白そうな番組ボタンを備えたテレビ」が出来てしまえば、恐らく人は、そっちの方向から逃げられなくなる。

大昔、病院の検査室が検査データを打ち出すときに、単なる数字だけでなく、それが異常なのか正常なのか、 高値、低値の表示をくっつけるようにしたのだけれど、あれは当初、「医師を馬鹿にしている」なんて、評判が悪かった。 喜んだのは自分たち学生で、いちいち正常値を覚えなくても、何が異常で、何が問題になっているのか、検査データを見れば 分かったから、あれは大いに助かったのだけれど、上の先生たちは、こんなの余計とか、これを出すと学生が馬鹿になるとか、怒ってた。 当時の学生は、見事に馬鹿にはなったけれど、今たぶん、検査データを「数字だけ」で印字する機械を使っている病院はほとんどないんじゃないかと思う。

ロボット化

ロボット化というのは、それこそメイドロボの流れだけれど、人が動くことでようやく実現している何かを、「不可視」に実現するのでなく、 むしろ「そこに人がいる」ことまでを模倣した機械を作ったほうが、恐らくは逆に、人は「それを自分でやっていた昔」を実感できるから、幸せになれる。

たとえばフードプロセッサーを駆使すれば、あるいはもっと単純に、キッチンばさみの使いかたを工夫するだけで、 大概の料理は、包丁みたいな原始的な道具を使わなくても、もっと文化的にやれる。

ところがフードプロセッサーで料理を作るためには、「そもそも今まで包丁を使っていたものを、どうやって機械にやらせるか」という、 かなり戦略的なことを考えないといけなくて、これは「キッチンばさみで料理」の本を読んだときも思ったんだけれど、 包丁で出来ることをはさみでやるためにはいろんな工夫が必要で、たしかに手は汚れないのだけれど、 「なるほど」と、作者の工夫にうなる場面の数だけ、実はこういう機械というのは、包丁よりも不便なのだと思う。

ここをこう、「包丁を持ったメイドロボ」的な、少なくとも包丁の動き、反対側に添える手の動きを模した道具で料理を機械化すると、 人間側は何も考えることなく、料理という手続きを「機械化」出来る。「工夫しなくていい」という要素は、恐らく機構の複雑さを補ってあまりある。

幸福を実感するための不自由さ

たとえば「一般化」した技術というのは、コストカットの地獄に巻き込まれるし、「微細化」というものは、携帯電話がそうであるように、 本来は人の手で組み立てられる「製品」から、全てを機械が行う「印刷物」への変化であって、 これは「一般化」に貢献するのだけれど、一方で、人の仕事を奪ってしまう。

技術がメディア化していくと、それが当たり前のものになるどころか、もっとずっとうるさくなって、メディアである以上、 そこに載せるコンテンツを無限に生成し続ける必要が生まれるけれど、だからこそ、そこで働ける人の数は増えていく。

「不可視化」というのは、「ホウキを持ったメイドロボ」でなく、「掃除のいらない床」を目指す技術のありかたで、 技術者としては、やっぱりこちらのほうが正しいのだろうけれど、これは人の振る舞いを書き換える。 掃除のいらない床の上に住んだ人は、もちろん掃除をしなくて良くなるから便利になるけれど、 「単なる便利」と、「それが無くなったことによる幸せ」とは、ずいぶん違うものなんだと思う。

TRIZ の清貧なやりかたとは対極にある、「富豪的」な考えかたが、恐らくは「メディア化」と「ロボット化」であって、 実は技術というものは、こっちの方向を目指したほうが、お客さんも、作る側の人も、分かりやすい幸せを得られるんじゃないかと思う。