改良の誤謬

デザインは記号との勝負

デザインとは、橋の形を考えることではなく、向こう岸への渡り方を考えることなのだという。

デザイナーが「橋」という使い古された記号にとらわれる限り、新しい発想は生まれないし、 橋が記号として再発明されるなら、デザイナーの出番はない。

デザインとは記号との戦い。デザイナーは記号に挑んで、 そもそもの「記号」が要請された需要を探って、 記号をデザインした人が、かつて成し遂げた成果を越えようとする。

橋という記号に負けたデザイナーは、うなだれて記号を受け入れて、その場を去る。 記号に打ち勝ったデザイナーは、新しいアイデアで顧客を驚かせて、 それでようやく、記号は再びデザインされる。

橋という記号を受け入れたデザイナーが、それでもそこに居座って、 橋を「改良」しようなんて考えたとき、たぶんすごく不幸なことがおきる。

顧客を驚かせるやりかた

ファミリーコンピューターがテレビゲームを支配してた頃、 ソニーの技術者は、「ゲームセンターでしか見ることができない、3D のゲームが家庭で楽しめる」 という驚きを提供することを目標にして、プレイステーションを作った。

驚きは受け入れられて、PS 1 はテレビゲームの新しい「記号」となって、大成功した。

次世代のPS 2もまた、「書き割りだった背景を、全て計算で作り出す」とか、 「高価なDVDプレイヤーを安価に提供する」だとか、まだまだ分かりやすい驚きを提供できたから、 やっぱり顧客は驚いて、PS 2 はよく売れた。

PS3 の時代になって、デザイナーは今度は、自らが築き上げてきた驚きを、 記号として受け入れてしまった。

新しいゲーム機は改良を受けて、今まで以上にきれいな画面で、処理速度も速かったけれど、 それは記号の延長だったから、顧客はそんなに驚かなかった。

ソニーの技術者は、新しい素子をものにしようとして、今まで以上に努力をしたのだという。 ところが技術にとって、驚きを伴わない「努力」というのはしばしば悪手となって、 技術それ自体を衰退させてしまう。

今まであるものが、記号として受け入れられたとき、それを「改良」しようとしたり、 目標を伴わない努力それ自体を重ねるやりかたは、不幸な結果をもたらす。

驚きを買いに来た顧客は、努力に支払う対価を持たない。 努力は報われなくて、あまつさえ「分からないユーザーが悪い」だなんて、 顧客を「改良」しようとする意志が透ける。改良されたはずのプロダクトは、 顧客から見放されてしまう。

正しい技術変化の方向

記号であることを受け入れた技術には、正しく変化すべき方向がある。

「一般化」と、「微細化」、「不可視化」。変化はこの方向へ為されなくてはならない。

技術の世界にも、たぶん「赤の女王仮説」が通用する。 走りつづけることで、初めて技術は、そこに止まれる。 走ることを止めたり、努力する方向を間違えた技術は、飽きられたり捨てられたり、 あるいは既得権益者扱いされて叩かれて、悲惨な結末を迎えてしまう。

テレビゲーム、医療や教育は、変化が要請されない、記号化した技術。 こんな分野が、何となく衰退したり、叩かれたりしている理由というのは、 たぶん「止まった」ことによる自壊であって、マスメディアや訴訟みたいな外的要因は、 技術が正しく「走って」さえいれば、問題にはならなかったのだと思う。

「戦艦」という考えかたを記号として受け入れたなら、技術者はその延長線上に、 安価な航空機の群れであったり、空母すら必要ない巡航ミサイルみたいなものを 想像すべきで、大きな大砲積むとか、絶対沈まない戦艦とか、そんな「改良」された 何かを見てはいけない。

あるいは記号との戦いを挑むのなら、戦艦が要請された状況、「戦いに勝つ」やりかたを デザインし直して、外交技術とか、世論誘導といったやりかたを考案するのが、 記号化を拒否する、顧客を驚かせるやりかた。

当時の軍人が、そんな意見に納得したとは思えないけれど。

医療のこと

医療や教育は、たぶん「生きていくのに不可欠である」ということに安住しすぎて、 正しい変化を志向できなかった。顧客を驚かせる体験も提供できなかったし、 一般化、不可視化といった、「正しい」変化もなされずに、 無目的な「改良」という努力目標を選択した結果、 顧客にそっぽを向かれてしまった。

救急医療が進歩した先に、技術者は、ドクターヘリなんかを想定してはいけない。

救急車は、正しく進化したら不可視化していく。タクシーに救急機能を持たせるとか、 軽症の患者さん限定で、電話と薬箱使った遠隔医療を許可するようなやりかた。 救急医療が進歩したなら、町を走る救急車の数は、むしろ減っていかないとおかしい。

基幹技術は、必ずコストダウンして、コンパクト化して、不可視化していく。 利権にしがみつく人達は、だから抵抗勢力となって邪魔をして、 技術を「改良」、重装化して、自らの立場を保とうとする。

戦艦という利権にしがみついた人達は、航空機の登場を読めなくて、 大艦巨砲主義に走った。救急車が進歩した先に、 ドクターカーとかヘリコプターとか夢見る人達は、やっぱりたぶん、利権にとらわれている。 努力という言葉のまじめさに隠蔽されて、気がついていないかもしれないけれど。

掃除機という技術を記号として受け入れたなら、その先に、掃除機も掃除ロボットもいらない、 「掃除のいらない床」を想像しないといけない。改良の誤謬にとり憑かれた人達は、 ここで「ほうきとチリトリ持ったメイドロボット」を想像して、努力に走ってしまう。

誰かが「掃除のいらない床」を発明したところで、メイドロボットの開発者は、 たぶんそれを「下らない技術」なんてこき下ろしたり、 「人類の幸せのためには、それでもメイドロボが必要なんです」なんて力説したり。

それは間抜けで、無残な光景だけれど、今の救急外来守ってる人達とか、 医療の「改良」に取り組んでる人達とか、同じ誤謬に陥っている気がする。

進化はやっぱりアメリカから。

医師以外の人がやるコンビニ診療とか、病院の枠を越えたデータの共有とか、 症状入れたら、全米の医師が検索されて、最も安い医者探すサービスとか、 google みたいな巨大企業がもう始めてて、たぶんそれなりに成功すると思う。 例によって「無料サービス」で提供されるから、普及するはず。

どこかで日本に入ってくる。自分も含めた日本中の医師は、 それを「医学の敗北だ」とか、「生命はコストじゃない」とか、 「医師以外の人に身体を預けるなんてありえない」とか、きっと猛反発する。 それが成功しちゃうと、一部の専門家以外、もう今までみたいに利権で 食べられないから。

記号となった技術には、進化の段階というものがある。技術者は、自ら乗っかっている 技術が今どの段階にあるのか、自覚的でないといけない。「正しく」進化したはてに消え去るか、 消えるのがいやなら、記号に戦いを挑まないといけない。

いつか「そのとき」が来た時は、せめて見苦しい真似したくないなと思う。