空気は構造が決定する

「その場所の雰囲気」というものは、そこにいる人よりも、むしろ その場所を作っている環境とか、構造みたいなものが決定する要素が案外大きい。

「こんな雰囲気にしたい」なんて思ったら、ルールを作るよりも、 むしろそうならざるを得ない構造をどう実装するのか、それを考えたほうが正解に近い気がする。

炎上するコメント欄

コメント欄で異なった意見の応酬が行われると、たいてい最後に行きつくのは、 大声コンテスト。

お互い口先だけ丁寧語使い回して、その場の空気は箸が立ちそうなぐらいに こってりドロドロ。対立が長引くほどに、まわりが引くほどに、 喧嘩している当人の声は大きくなって、収拾つかなくなる。 たくさんの人が書き込むページは、管理大変だろうなと思う。

こんなときに、「道徳」叫ぶやりかたは無力。

「紳士的に振舞いましょう」とか、「罵詈雑言止めましょう」なんて管理人が叫んだところで、 「相手はともかく私は紳士」だとか、自分の正義主張してみたり、 「罵詈雑言の定義を行ってください」なんて、 言語定義ゲームが始まる頃には、空気はいっそう重くなる。 お互いの言葉遣いは、こんなときに限って馬鹿丁寧なんだけど。

ネット世間での意見の応酬は、雑踏の中で口喧嘩するのに似ている。

人はたくさんいるけれど、誰も喧嘩に無関心。誰も止めないから、 喧嘩の規模は膨らんで、結局お互い殴りあいになって、 疲れてどちらかがいなくなるまで、喧嘩が続く。喧嘩の当事者も、管理人も、ダメージ大きい。

コメント欄は、Web を動かす目線の圧力から、 管理人が盾になって「無風地帯」を作っている場所。 みんなの目線が介在しない場所は、要するに無法地帯で、 どんなに下品なことしても、それをとがめる構造が存在しない。

無風地帯では、管理人は中立が建前。 「私はルールを守っているんだから、何してもいいんですよね」なんて 主張する人達を止められない。

コメント欄は炎上する。それはたいていの場合、管理人が何かを失敗したのではなくて、 blog のコメント欄というのが、そもそもが炎上するしかない構造を持っているからなんだと思う。

炎上が発生しない twitter

最近遊び場にしている twitter には、「炎上」が発生しない。 激しい意見書く人多いし、中心が存在しないコミュニティで、 同じ意見持ってる人なんて一人もいないのに。

twitter 界隈での議論というのは、酔っ払ったフーリガンが集まる酒場の真ん中で、 口喧嘩をしているようなイメージ。誰もが闘争に飢えていて、 喧嘩をしている当人よりもよっぽど怖い人達が、まわり見渡すとゴロゴロいる。

そんな場所では、ちょっと騒いだらみんなこっち見るし、 大きな声を出したら、思いもよらないところからいきなり殴られたり、 あるいは知らない誰かからビールを奢ってもらえたり。喧嘩に夢中でそれ断ったら、 今度は酒場全員敵に回して、大変なことになってしまったり。

議論をやるときは、だからお互いの言動にすごく気を使うし、 言葉遣いとか、言い回しなんかも、自然と丁寧になる。ルールなんてないし、 「掲示板の道徳」を壁に書いて貼る人もいないけれど、お互い自由に議論して、 それでもやっぱり、議論は荒れない。

意見が割れたときの「決闘の場」として、twitter を使ったら、すごく和やかになると思う。

twitter では、みんなID が必要だから、発言者のあらゆる立ち居振舞いは、 その人の過去に遡って検証される。あの場所を徘徊している人達の多くは公平で、 酷薄で、自分の発信メディアを持っていて、喧嘩の最中、何か面白い失言すれば、 全世界に発信されてしまう。

喧嘩をはじめたところで、その話題がどこまで広がっていくのか、 当事者にすら把握不可能で、全然知らない人から横槍突っ込まれたりする。 そんな場所ではだから、お互いエキサイトしないよう、 冷静に意見を交換するよう、言われなくても気をつけるし、 丁寧な言葉で罵倒するとか、言い回しで事実を運用するとか、 そんな飛び道具使うこともなくなって、議論が建設的になる。

twitter はだから、「和やかな意見の応酬」をやる場所としては、 すごく完成度が高い構造を持っている。

制御主義と構造主義

コメント欄への書き込みが、自動的に twitter での @ コメントになるような プラグインがあったら便利だと思う。ID 持ってないと書きこみできないから 難しいかもしれないけれど、それが実装できれば、原理的にコメント欄の炎上はなくなるだろうし、 知らない人がとんでもない炎上ワード落としても、界隈に笑われて、恥かいて終わる。

掲示板とかコメント欄みたいな、構造的に炎上しやすいメディアを紳士協定で縛るやりかたには、 やっぱり無理がある。ルールや道徳で縛ったり、ルールが目立っていくような進化の方向は 誤りで、「そう振舞わざるを得ない構造」を記述して、ルールや道徳が不可視化されていく 方向が正しいんだと思う。

罵詈雑言を楽しく応酬して、炎上それ自体を楽しみたいのならば匿名掲示板に行けばいいし、 和やかな空気を望むなら、twitter みたいな目線圧力が高い構造を作り出して、 そこで議論するのが正しい。

ほとんどどんな条件のもとであっても、望ましいルールが創発する構造は、きっと存在する。

ルールというのは本来、みんなの身勝手な振る舞いから生じた均衡状態を、 ルールと名付けたもの。「ルールを守れば何やってもいいんだ」なんて、 そんな言い訳のために生まれた道具なんかではないはずだから。