医療も「人間」から卒業していいと思う

患者さんは症状を抱えて、それを解決したくて病院に来る。 症状と治癒、両者の間には、当たり前のように「診断」が鎮座するけど、 「診断は不明で何となく治る」ことなんてよくあるし、 診断がついたところで、治らない人はやっぱり治らない。

診断という床屋の満足

床屋の満足 というのは、「本来顧客の満足を最優先すべき商売もしくはもの作りをしている人が、 自分の満足を優先して行動してしまうこと」を指す言葉。

床屋さんは髪を切る。切り始めて30分もすると、大雑把な形は出来上がるのだけど、 昔気質の床屋さんは、「そろそろ終わりかな?」なんて思ってからが長い。 少しラフだけど、何となくいい感じだった髪型は、ミリ単位の修正を繰り返されて、 1時間もする頃には、いかにも「床屋に行ってきました」なんて髪型になる。

患者さんは、「症状」を抱えてやってきて、対価を支払って「治癒」を購入する。 「治癒」につながらない、診断という行為は、床屋の満足。 髪切って、最後の最後で床屋さんがこだわっている、 投入されたリソースのわりに、見返りが少ない努力。

広域抗生物質が当たり前のように出回る現在、たとえば「発熱」という問題を抱えて 来院した人は、どんな診断がついても、治療はほとんど変わらない。高齢者であれば、 発熱はやっぱり細菌感染。何となく点滴して、強力な抗生物質投入すれば、 治る人は大体治る。

熱源調べても、行う治療は結局同じ。裏を返せば、血液検査とか画像診断、 あるいは問診やら理学所見やら、診断を確定するいろんな努力は、 治療がそれほど変わらないのなら、「治癒」にはつながらない、省略可能なものなんだと思う。

熱が出る。高齢者であれば、とりあえず入院させて、抗生剤を点滴する。 お腹押して痛がったら絶食にして、意識あったら食事を出す。 熱下がったら食事を出して、4日たったら経口の抗生物質に変更して、 何もなければ7日間ぐらいしたら帰ってもらう。

こんなやりかたすると、もちろん原因は分からないし、見逃したら命取りになる「穴」なんて いくらでも指摘できるけれど、条件分枝は簡単に増やせる。ごくごく大雑把に、 救急外来に来るたいていの症状に対して、「診断できないけれど、とりあえず治癒につなげる」 やりかたを組むことは、決して不可能ではないはず。

機械の修理なんかと違って、人間の身体はあいまいさを許容する。部品足りなかったり、 多少の隙間ができたところで、余った組織を詰め込んでおけば、傷は何となく塞がって、 そのうち治る。

あいまいさだからこそ、「診断」を行うことは極めて難しいし、 診断を迂回しながら治癒にたどり着く手順を探すやりかたは、 そのあいまいさに乗っかる形で、案外うまく行くと思う。

技術の印刷可能性

「人間要素の排除」こそが、プロトコルを考える上での鍵になる。

「一目見れば」誰でも分かることであっても、複雑な検査を3つ重ねれば、それを 機械的に証明できるなら、機械を優先するやりかた。

たとえば「見る」なんていう行為もまた、手順をばらすことで、「機械化」できる。 腹部外傷でCTを撮る場合、「出血のないことを確認する」なんて書きかたは論外で、 「肝臓の周囲が1本の線で追える」とか、「脾臓がひと固まりに見える」とか、 分かる人なら一行で済ませる部分を、ことごとくチェックリストに記述しないといけない。

コストは結局安くなる。「ちょっと診て、ちょっと治す」なんてやりかたは、 バックグラウンドでものすごいコストがかかってる。 「ちょっと治す」を担保するための維持コストは、請求書からは見えてこない。

機械は疲れない。たくさん使えば、たくさん作れば、いくらだって安くなる。 どんなに高コストの検査を組もうが、人間要素さえ入らなければ、 技術は「印刷」することが可能になって、劇的なコストダウンが可能になる。

診療という一連の動作を、検査機械の数字、あるいは「機械化した医師」の振る舞いとして 記述できれば、そこに「診断名」は存在しなくなる。診断という行いこそは、 医療行為の中で、唯一絶対に「人間」を外せないコンポーネントだから。

たぶん、医療から「診断」を外すことができたとき、医療はもはや技術ではなく、 いくらでも大量生産可能な印刷物となる。医師の調達コストは下がるだろうし、 そもそもそこに、医師がいなくなる可能性だって見えてくる。

訴訟抑止力としての機械化医療

都立病院で、また救急の先生が書類送検された。

ベテランの救急医だし、都内の病院だからこそ、恐らく例によって、 医療者側は「正しい」ことを行ったにもかかわらず、法律的にはそれが「正しくない」 認定を受けたんだと思う。

事故とか過誤とか、「医者が悪い」と現場が叩かれるのは、やっぱりそこに人間要素が存在するから。

医療という行為の定義から、「診断」という人間コンポーネントを外すことができるなら、 それは訴訟圧力に対する強力な対抗手段になりうる。

「全てのトラブルは医師のせい」なんて論調は、 「医師は診断して、患者さんを安心させるお仕事」なんて文脈から発生する。

「医師というのは、頭が痛い人にCTスキャンを提供して、 脳実質周囲に白い部分がないことを確認する仕事です」 なんて俺様定義を全国の救急医が共有したなら、「頭痛」という症状に対しては文脈上、 医師の責任が発生しない。

そんなことは世論が許すわけないんだけれど、今はまだ、現場が何をわめいたところで、 交渉の相手は、議論のテーブルにも座ってくれない状態。こんなやりかたは、少なくとも 状況を動かすための武器にはなるはず。

「症状」と、「治癒までの道のり」とを直結させる手順書を記述して、 学会の偉い人達がそれに承認を与えれば、訴訟が怖い現場の医師は、 たぶんみんなそれに乗っかる。

診断という人間要素、大事そうなくせに治癒に寄与しない、 厄介なコンポーネントが医療から追い出せるなら、 仕事はずいぶん楽になる。

診断を放棄した医師を、マスメディアはぶっ叩く。もしかしたら、学会認定の「頭空っぽの」医師と、 そんな手順書を是としない「正しい」医師とが対立するかもしれない。 患者さんはたぶん、頭が空っぽの医者が常駐する救急病院と、夜間救急数時間待ちの「正しい」 病院と、自ら支持する病院を選択することになる。

そもそもが、人間の判断がないとまわらないシステム作った時点で、 医療は相当に筋の悪い決定を下したんだと思う。

技術はプラットフォームに転化する

医療現場から、あるいは現場の医師から「脳」を外す、そんなやりかたは、 間違いなく医師の地位を低下させるけれど、今度はたぶん、 医療技術がプラットフォームとなって、 今までから考えられなかった場所に、医師の居場所が生まれる。

低コスト化という流れのどこかで、技術はその立場を大きく変える。

インド人もびっくりの 20 万円乗用車とか、最近話題の 5 万円 PC だとか。 価格破壊が極限まで進んだ製品は、もはや単なる車、ノートPC の用途からはありえない、 何か新しいものを作るための「部品」であったり、 特定の機能のためだけに汎用品を使うようなやりかただったり、 今まで想像もされなかったような使われかたをされるようになる。 「高価格だけれど高性能」を追求する流れは、その時点ではもはや、主流ではいられない。

コストダウンを進めていくと、技術はプラットフォームに転化する。 「その使いかたを極める」ための製品から、「それを使って何かやる」、 ネジ一本、歯車一つみたいな部品としての使われかた。

訴訟圧力とコストダウンの要求は、いつかはきっと、医療の「脱人間化」を要請する。 医療はたぶん、そんな流れを拒めないし、それでも人間でありつづけようとする人は、 「既得権者」として叩かれたり、 「人間らしく」裁判所に呼び出されて、人生台無しにされたりするんだと思う。

コスト圧力と訴訟圧力が弱まるわけないんだから、偉い人の誰かが腹括って、 さっさとステージ移したっていい頃。

今ならきっと、手順書発表した人が天下取れるはず。