技術追求の誤謬があるのかも

「技術を極めることが優れたプロダクトにつながる」と信じて、 ひたすらに腕を磨くような技術者のありかたは、 たぶん間違っている。

製品単独として優れていることは、必ずしも「優れたプロダクト」であると 認知されることにつながらない。 「優れている」という評価はたぶん、要素としての製品と、ユーザーと、 それが使われる環境との相互作用を通じて、システムとして創発される。

「何か優れたものを作りたい」なんて思ったら、要素として「よい」ものを作るだけでは片手落ちで、 ユーザーがそれを使ったとき、そのありかたが最善になるような環境をもデザインして作り出さないと、 作り出したものの「よさ」というのは、想定どおりに現れない。

MacBook Air のこと

今度発売される新しいノートパソコン「MacBook Air」は、技術的には案外たいしたことがない なんて記事が話題になっていた。日本ならもちろん同じものが作れるし、 おそらくはMacBook Air よりも、 もっと技術的に優れたものが作れるだろうなんて。

「たいしたことはない」なんて評価を下した人達は、あれを設計したアメリカの技術者よりも 優れているのだろうけれど、「優れた」人でなくても、MacBook Air が 作れてしまったことに対して、技術者はもっと脅威を感じるべきなんだと思う。

優れた製品を作るために、その技術者が自らに投じたコストというものは、 はたしてその人が作り出したプロダクトに見合うものになっているのだろうか ?

技術者の技量は、投じたリソースの平方根でしか、パフォーマンスとして返ってこない。 日本人の技術者は、もしかしたら米国人よりも2 倍優れていたかもしれないけれど、 「2倍」を達成するためには、たぶん4 倍のリソースを投じないといけない。

MacBook Air の筐体はネジだらけで、技量を持った人が設計すれば、 もっとネジを少なくできるらしい。たとえば2倍優れた技術者を投じ たならば、技術に4倍のリソースを振り分けないといけない。 それで得られた成果が「ねじ数本」というのは、もしかしたら すごく無駄なことなのかもしれない。

顧客の目線と同業者の目線

少し前に話題になって、あんまり売れなかったのは、ソニーの極薄ノート。

あれはたぶん、日本流に「極まった技術者」が設計した芸術品だったけれど、 MacBook Air があのノート以上に話題になって、あまつさえ売上げがよかったりしたら、 「極まった技術というものは優れたプロダクトの本質にはなり得ない」 なんてお話する専門家とか、きっと出てくる。

「技術力」と「ブランドイメージ」は、たぶん車輪の両輪みたいなもので、 技術者の人達は、自ら持っているリソースを、どちらにどれだけ割くべきなのか、 もっと真剣に考えるべきなんだと思う。

技術が先鋭化していく中で、結果志向はどこかで、 方法論志向に取って代わられてしまう。

技術を極める人達が気にするのは、たぶん仲間からの目線。 「すごさ」はお客に伝わらない。伝わらないから、分からないからそこに専門の技術者がいる。 「技術者のプライド」というのは要するに、「仲間から馬鹿にされたくない」なんて、 同業者の目線に対するプライドであって、そこに顧客の目線は存在しない。

「顧客から見たいいプロダクト」を作るのに何が必要なのかを考えて、 必要なリソース配分を行ったアメリカの技術者と、技術を極めた先にこそ いいプロダクトが現れると信じて、ひたすらに腕を磨いた日本の技術者と。

「腕」の延長線上に現れるのは、同業者の目線でみたすごい製品なのだろうけれど、 そのすごさはもしかしたら、顧客の目線には届かない。

「系」としてのプロダクト

スティーブジョブスは、製品のプレゼンテーションを準備するのに数週間かけるらしい。

MacBook Air はもしかしたら、その「数週間」を技術的な改良に振り分けたら、 あるいは日本の技術者をうならせるような設計ができたのかもしれないけれど、 ジョブスはプレゼンテーションにリソースを割り振った。

わずかな技術の改良を積み重ねても、もしかしたら優れたプロダクトには届かない。

「プロダクト」というものを、製品単体として、極めるべき対象として見てはいけないのだと思う。 それはむしろ「系」として、製品を使うユーザーとか、その製品が使われる状況なんかを含めた システムを「プロダクト」として認知して、ユーザーであったり、環境であったりといった部分まで含めて デザインして、あるいは「開発」しないといけない。

プレゼンテーションの準備に莫大なリソースを割り振るやりかたは、 たぶんプロダクトを「系」としてとらえている。 その製品を使う人の顔とか、製品を買った人が、それを使う風景なんかは、 優れたプレゼンテーションを通じて「デザイン」されて、「開発」される。

プレゼンテーションの準備というものもまた、恐らくは見た目をごまかすことなんかじゃなくて、 優れたプロダクトを開発する行為そのものなのだと思う。

「いい医師になりたい」なんて、みんな医学博士とって留学して、学会発表して専門医とって、 若くして開業する。

努力の成果物である肩書きは、確かにその人を経済的に助けてくれるのだろうけれど、 せっかく磨いた専門技能は、もはや患者さんの役には立たない。専門技術は 高価な設備やリスクと不可分で、個人で開業する先生がたは、 それを負担するだけの体力は持ってないから。

腕を磨くことそれ自体は正しいのだろうけれど、やっぱりもったいない。 医師だって技術者だけれど、どこかでたぶん、技術追求の誤謬に陥って、 自ら磨いた「腕」それ自体をお金に替えることを怠ったツケが、 開業して、技術を放り出さないとお金にならない、今の歪な構図を 作ってしまった。

今さら医師がおかれた状況を「開発」しなおすことなんて無理なんだろうけれど、 チャンスがあるのだとしたら、それは技術の改良なんかじゃなくて、 むしろプレゼンテーションの延長線上にある何かなんだと思う。