「変わらない前提」を維持するワクチンのこと

「事実が事実として通用する」世の中は、恐らくは不自然な状態。

もちろんそんなありかたが心地いいと感じる人が多数派だからこそ、 たいていの場合、事実は事実として通用するけれど、 「事実がそのまま通用すること」と、「その事実が運用不可能であること」とは、 やはり同じではありえない。

不変の価値が共有されても、世の中にはやはり、それを変えたい人がいる。

問題を相対化して撹乱するやりかたは、相対化を狙う側からは、やっぱり有効な手段に思えて、 そんなやりかたを否定する人たちが盛り上がっていたけれど、 やっぱり「個別に潰す」やりかた以外の解決策が見えてこない。

議論相対化の回避手段と、「変わらない前提」を信じる人達に課せられた義務について。

状況を維持する予防医療

問題を相対化するやりかたが、とりあえず「邪悪」なものであったとしても、 邪悪なやりかたは広まりやすくて、一度広まった相対主義は、根絶するのが難しい。

価値の絶対性を信じる人達は、その価値を運用しようとする人達を叩く。 叩かれた人は、もしかしたら価値の運用を止めるけれど、「運用」という病気は 感染症みたいに広まる。「感染した」誰かを叩いても、世間に「予防」を 行わないなら、相対化のやりかたは、必ず再発する。

恐らくは、ウィルス感染症のイメージが近いのだと思う。

インフルエンザや麻疹みたいなウィルス感染症は、もちろんそれが無い世の中のほうが 望ましいけれど、それは本来「不自然」な状態。みんながそれを望んでも、 ウィルスはやっぱり世の中にいるし、一度感染した人は、ウィルスを回りにばらまく。

自然界では、たぶん一定数の人が「感染」して、その人達はしばしば自然治癒したり、 不幸な転帰をたどったりする。

医師という人種は、「病気は世の中に無いほうがいい」という価値の絶対性を信じてる。 自分達の価値を世の中に蔓延させるために、「ワクチン接種」という行動を通じて、 「感染症の無い世の中」という、不自然な状態を目指す。

変わらない価値を信じることが「正しいこと」なのだとしても、 それ自体はきっと、ある種不自然な経過で出来上がった状態。 価値の絶対性を信じる人達は、もしもその状態を維持したいと思うのならば、 まだ「感染」を生じていない人に「免疫」をつける義務が 発生するのだと思う。

ワクチンのやりかた

「事実が事実として通用する」という時点で、その絶対性を信じる人達には、 やっぱり何らかの利権が発生する。利権に対する代償、あるいは絶対性を 維持するためのコストとして、その人たちにはきっと、 絶対的な事実が通用する社会を維持する義務が発生する。

インフルエンザのワクチンはまだ不完全だけれど、インフルエンザ感染症のない社会が 「良いもの」と考える人達は、みんなにワクチン接種を行って、感染が拡大するのを防ぐ。

あるいは「ウィルスにだって生存権を」なんて主張するナチュラリストがいたら、 生態系とか、多様性を主張して、ウィルス広めようとするかもしれない。 それは個人の権利だし、そもそもウィルスは勝手に広まるものだから、 その人を説得したところで、感染症はなくならない。

ウィルスを接種する人達は、たとえば「感染者」を免疫のついた人で 包囲してしまったり、ワクチン接種が完全でない国、たとえば麻疹の接種が遅れている 日本人の渡航者を「危険である」とラベリングするやりかたを通じて、 感染が広まるのを防ぐ。

「ウィルスナチュラリスト」を説得するのは難しいのかもしれないけれど、 説得が失敗に終わっても、ワクチン接種の戦略を間違えなければ、感染は広まらない。 その人は、あるいは包囲網を突破しようとするかもしれないけれど、 それはもはや主義主張なんかじゃなくて、単なるバイオテロ。警察のお仕事。

「ワクチン接種」戦略に必要なツールは2 つ。相対主義に「感染した」人を診断するための 診断ガイドラインと、まだ「感染していない」人に免疫をつけるための「ワクチン」の作成。

恐らくはそれは、価値の絶対性を信じる人達が用意すべきもので、 それを準備できない人達は、そもそも価値を運用しようとする「感染者」の広がりに対して、 有効な手を打てない。

個別撃破の戦略というのは、病気になった人を治すやりかた。

最近の騒動に対して、「いちいち潰してくのも大変だ…」なんて呟きがあったけれど、 「いちいち潰す」以外の方法論考え出すのも、たぶん「正当」を主張する人達に課せられた役割。 「いちいち潰して」も、たぶん感染症が広まっていくことそれ自体は阻止できないし、 実際問題、今回自分も含めて何人かの人たちが「感染」を表明したけれど、 今のところまだ、誰も「治癒」していなければ、「潰された」人もまたいない。

議論を通じて誰かを治療することというのは、不可能であるか、少なくとも相当に困難だからこそ、 感染者は放置して、まだ感染していない人に免疫つける戦略が有効なはず。

恐らくはいろんな分野、それこそ医療も含めて、「正義」とか「道徳」、 「事実」みたいな揺るがないものから利権を得ていた人たちが、 今になって足下揺らいで大騒ぎしている原因は、価値の絶対性を維持するための、 「ワクチン」を用いた戦略を怠ったためなんだと思う。

ワクチンがワクチンであるために

ワクチンがワクチンとして成立する条件は、なんといっても簡便なことと、 早く効くこと。接種するために1 週間の入院が必要で、効果発現まで1 年かかるワクチンなんて、 たとえ完璧な効果を発揮したところで、残念ながら普及しない。

ワクチンの効果は、たぶん厳密である必要はない。「感染者」を治癒させる効果なんて もちろん必要ないし、「感染していない」人を対象に「感染しにくくする」 効果が発揮できれば、それでも十分な効果が得られる。 ワクチンには、簡便さと確実性とのトレードオフが発生する。 「注射一回で済む」やりかたは、たぶんとても大切。

「効果が高い」ワクチンはまた、免疫がつく人と一緒に、感染者それ自体を増やしてしまう 危険がある。インフルエンザワクチンなんかは、安全だけれど効果が弱い 「不活化ワクチン」と、効果が高いけれど感染可能性がゼロではない「生ワクチン」とがあって、 生ワクチンはもしかしたら、ワクチン接種を行うことで、感染者を作ってしまう。 どんな分野であっても、「ワクチン」を作る際には、きっと同じようなジレンマに直面するはず。

ワクチン接種の効果的な戦略は、たぶんネットワーク科学畑の人達が、いろいろ考えてくれる。 それは免疫を持った人で感染者を取り囲む戦略であったりとか、ネットワークで「ハブ」になる 人から優先的にワクチンを接種する戦略であったりとか。

インターネットは、「感染」が爆発的に広まってしまうリスクがある代わり、 「ハブ」の特定が容易な世界。もちろんこの構造は、感染を広めたいとたくらむ人にだって 有利なんだけれど、価値の絶対性を信じる人達にとっても、条件は一緒。

医療のこと

たとえば医療の業界は、「病気の治療は不確実なものである」という変わらない前提が 社会に共有されていて、そこから利権を得ていたのだと思う。

「全力を尽くしてみますが、駄目かもしれません」なんて、一昔前の医療ドラマの決まり文句。 今の世の中、こんな台詞をカジュアルに口にすると、相手が悪ければぶん殴られる。 昔はたぶん、この「不確実」がある程度共有されていて、だからこそ頑張れた。 いつのまにか「絶対」が当たり前に求められる昨今、「頑張る」か、 それとも最初から撤退するか、ものすごく悩んで、すごく疲れる。

この10年ぐらい、「不確実な医療というのは、医者が頑張れば確実になるんじゃないの?」 なんて問題提起をする人たちが、主にマスコミ方面、司法方面からたくさん出てきて、 医療者側はしばしば、それに対して有効な反論をしてこなかった。

今も昔も、医療というのはやっぱり不確実で、時々すごく上手くいくことだってあるけれど、 上手くいくはずだった何かが急変することだって、やっぱり多い。そのあたり大昔なら、 「残念です」で済んでいたけれど、今は大問題。

これなんかもきっと、医療者側から見れば、前提の相対化が招いた悲劇。 残念ながら、問題の相対化が行われて、とりあえず困るのは医療従事者だけだから、 相対化はどんどん進んで、「医療は不確実」なんて前提は、ほとんど滅びかけてるこの頃。

確実な結果を求められたって無理なんだけれど、 そもそもはきっと、「確実さ」を相対化された時点で、医療側の敗北が決定していたのだと思う。

歴史の人達に聞いてみたいこと

たぶん、歴史畑の人達は「価値の相対化」との戦いがとても長いはず。

相対論者との戦いに慣れている人達なんかは、相対化を図る人達が出てきたら、 「ああまたか」みたいな反論テンプレートを持っていたりとか、 相対化それ自体の論拠を空虚にするような対抗論理をすでに発見してあったりとか、 「このフレーズは相対化ワード」みたいなリストがあって、それが出た時点で、 真っ当な学者は相手にしちゃいけないみたいな「診断基準」を用意してあるとか、 そんな戦略は、何か開発していないんだろうか?

あるいは「正しさ」を維持するためのワクチン。それこそ「健康な」素人が3分で読めて、 「ああやっぱりそうなんだ」みたいなとりあえずの理解が得られて、 相対論唱える「感染者」に対する免疫がつくような説明のやりかた。

そんなやりかたがあるのなら、きっといろんな業界で役に立つと思うし、 それを教えてもらえるならば、うちが「叩かれ」たって、 全然かまわないんだけれど。