マニュアルを読むだけの簡単な仕事です

統計学が世界を変える

「その数学が戦略を決める」という本を読んだ。統計学の一般書。

ワインの質とか裁判の結末だとか、「専門家」の予測よりも、 統計ベースの簡単な予測式で作った予測のほうがよっぽど正確だとか、 「専門家の欺瞞」を統計学が暴くお話。

教育、医療、映画の脚本みたいな芸術要素が高い業界では、 専門家が「芸術性」を発揮することそれ自体が成果を悪くして、 統計が決めた「シナリオ」どおりに物事を進めたほうが、よっぽどいい成果に結びつくなんて、 統計による検証を拒んだ「芸術」の無意味さを、やっぱり統計学が検証するお話。

医療とか教育の分野で勧められていたのが、定食メニュー的なやりかた。

  • 教師の人達は、最初から最後まで、厳密に決められた「シナリオ」を読むだけの授業に徹したほうが、 あれこれ「工夫」を凝らした授業をするよりも、生徒の質はよっぽど高くなる
  • 病院では、医師が「良かれ」と思って下した判断は、たいていの場合裏目に出るから、 統計に検証されたシナリオどおり、あたかも操り人形のように働いたほうが、 患者さんの予後が良くなる

こういう本読むときは、自分達以外の業界が叩かれてると、「そうだそうだ」と思う。 偉そうな専門家の欺瞞を暴く統計学者はすばらしいだなんて。

自分達の分野、医療の分野だけは例外。医師の工夫こそが治療の質を悪くするとか、 ふざけんなと思う。患者さんよりも「エクセル」の画面眺めてる時間のほうが 長い連中に、現場のこと分かってたまるかなんて。

たぶん、本に取り上げられてたほかの業界、ワイン評論家も、教育者も、脚本家も、 みんな「ふざけるな」と思いながら、医療については「そのとおり」と思っているはず。

たぶん統計学者の言っていることは正しくて、統計学者が「成果」を定義できる限り統計学的なやりかたは、たいていの場合「現場の直感」を越える気がする。

現場はそれが難しいから、自分達にももう少しだけ、生き残る目があるんだけれど。

変革を拒む現場の哲学

最近読んだ経済学の入門書「市場を創る」の中に、 二硫化硫黄を排出権取引の市場に乗っけることで、 環境保護にとてもいい効果をもたらしたエピソードが書かれてた。

最近流行している「空気商売」のお話。やっぱり今でも「詐欺だろ」と思うけれど、 環境に価値をくっつけるやりかたは、それでもすべての人に環境保護への動機を生んで、 「いい環境」を確実に実現する。

環境保護に市場原理を持ち込むやりかたは上手くいく。 それなのに、経済学の人達がこんなアイデアを持ち込んだとき、そのアイデアに抵抗して、 「環境を良くする」のを拒んだのは、企業ではなくて、むしろ環境保護の人達だったらしい。

同じ環境保護なのに、彼らはむしろ「抵抗勢力」として働いて、そのうち このやりかたの「成果」が目に見えるようになって、ようやく彼らは「市場」に参入して、 募金を集めて排出権を買い取る行動をはじめたりして、 自らの行動をも「市場化」するようになったのだという。

たぶん環境の人達は、市場原理で環境保護を進めるやりかたをみて、 なんだか良心的でない、汚らしい印象をもったのだと思う。

統計にしても、市場原理にしても、「成果」を目標にした実用一点張りのやりかたというのは、 「信念」とか「アート」、「情熱」みたいな、シンプルな行動規範で駆動されてきた分野 の人達にとっては、それを受け入れるのにすごいエネルギーが要る。

「目標」にたどりつけない、不完全な「手段」というものは、しばしば 本来の目標を隠蔽して、手段それ自体を目標にしてしまう。

変わらないものは、そこから利権を得る人達を生む。 情熱とか工夫、「現場の直感」みたいな変わらない行動規範から 利益を得てきた人達は、たぶん本来の「目標」を達成するための強力なツールが提示されても、 目標を達成できるメリットと、自らの手段を奪われるデメリットを秤にかけて、 なかなかそれを肯定できない。

医療や福祉、教育なんかの「専門家」が 活躍するほとんどの分野で、きっと同じ光景が繰り返されているはず。

患者さんの変質とアートの疲弊

医療にはたしかに「シナリオ」めいたものが使えるときがあって、そのときはたいていの場合、 へんな工夫なんか考えないでシナリオどおりに物事進めると、けっこう上手くいく。

肺炎の患者さんなんか、たとえばその人のために2 時間ぐらい戦略練るより、 何も考えないで抗生剤の投与を行ったほうが、たぶん「2 時間」ぶんだけ 患者さんはいい治療を受けられる。治療の遅延はそのまんま、 予後の悪化につながってしまうから。

医師の一部、特に内科方面が、「統計に裏打ちされた操り人形」になったときには、 医師に必要な能力は、知識の量よりも反射神経になる。外来に来た患者さんを、 一刻も早く「シナリオ」に帰着させるために、つまらない「思考」なんて行わないで、 反射の気合で判断を行う能力。

現場はもちろん抵抗するはずだし、抵抗しなければ、医師の地位とか給料は下がる一方だけれど、 「高齢化」という現象は、アートとしての医療の考えかたそれ自体に制度疲労を招きつつある。

腹膜炎の寝たきり認知症の人なんか、そもそも「問診」できないし、 腹筋がないから、炎症起こしてるのにお腹が柔らかい。 痛くないときでも叫んでるから、押して痛いのかどうかすら分からない。

患者さんのお話を丁寧に聞いて、理学所見をとるところまでが 8 割、 あとの検査はその確認にしか使えないから、頼っちゃいけないなんて教わったのは昔の話。

最近は、たとえば「○○苑」から送られた患者さんには厄介な誤嚥性肺炎が多いとか、 「○○医院」の紹介は、本物の重症多いから、歩いてても危ないとか、病院以前の情報を重視したり、 患者さんとの挨拶代わりにまず CT撮って、それを見ながら痛そうななところを 押してみたりとか、昔ながらの方法論を使わない場面が増えた。

伝統的な西洋医学のやりかたは、「これじゃない」を言うのは容易だけれど、 「これだ」という診断名に飛びつくためには、最後のジャンプが案外大変。今は昔以上に大変。 シナリオ使ったり、確率論的に病名を予測するやりかたはのろまだけれど、 状況が変わっても、「歩み」のペースが常に一定の印象。

歩き出しは遅いけれど、診断名にたどり着くまでの確率は 結局同じか、状況によってはむしろ早くて、「ジャンプ」が必要ないぶん確実だったりする。 もちろんまだまだ不完全だけれど、方法論として「正解」に近いのは、 やっぱり確率論的な予測手段なんだと思う。

変化は外からやってくる

統計学とか経済学が提案する、実用的で芸術的じゃないやりかたは、 それでもたぶん、「内なる改革」が要請することはなくて、 外圧により実現される。

それは病院経営とか、コスト感覚の問題であったり、あるいは患者さんのクレーム対策とか、 訴訟圧力の問題であったり。

「絶対」とは無縁だったはずの病院業界も、今では当然のように「絶対」を求められる。 医療者側にとれる対策は、「みんなで同じことやろうよ」なんて、医療のマニュアル化。

それはもちろん、統計学者の意見を積極的に取り入れましょうなんて前向きなものではなくて、 むしろ本当は「アート」を見せつけたいんだけれど、それやると必ず叩かれるから、 みんなでとりあえず我慢できる範囲で「同じこと」探しましょうなんて、すごく後ろむきな動機。

偉い人達はたぶん、苦渋の選択として「こうせよ」を決めるのだろうけれど、 若手はきっと、そんなマニュアルを嬉しく思う。自分達の業界では、 マニュアルこそが、自らの身を守る唯一実用的なツールになるから。

良心や道徳もまた、状況に対する適応が事後的に決定する。

医療のいろんな場所にマニュアルが浸透したとき、その頃にはたぶん、 「現場の直感」それ自体が「悪徳」となって、道徳的に振舞う医師は、 みんなマニュアルを墨守する。

それは決して、そんなに遠い未来ではないんだと思う。