それがいらない世界を想像してみる

「それ」はたいてい、もちろん必要だからこそ世界にあり続けて、 そもそも「それ」を無くすことにどれだけの意味があるのか、無くしてみて、 世の中どれだけ便利になるのか、無くしてみないことには、もちろん分からないのだけれど。

たとえば「配線」のいらないない世界

ごく至近距離での高速無線通信が規格化されて、それが実用的に、安価になった世の中を想定する。

そういう世界のパソコンは、たとえばビデオカードマザーボード、 あるいはメモリーやハードディスクといった部品を、お互い配線でつなぐ必要が無い。

ノートパソコンみたいな道具は、配線の制約から解き放たれる。とりあえず「ノートの形をしたもの」のどこかに、 それぞれの部品がおさまっていればいいわけだから、今までからは想像も出来ないようなデザインが生まれるかもしれない。

自動車のアクセルやブレーキ、ハンドルだとか、トランスミッションの制御を全部無線規格にしたら、 自動車というものは、エンジンと車輪のついた、単なる箱になって、内装の自由度を、飛躍的に高めることができる。

自動車の内装部分は、メーカーから買わなくてもよくなるかもしれない。そうなったところで、 9 割 の人達は、 恐らく今までどおりの「自動車」を選ぶだろうけれど、戦闘機のコックピットみたいなものを注文する人がいるかもしれないし、 「ガンダム」のコックピットみたいなものに人気が集まるかもしれない。

「配線のいらない世界」からは、そのうちたぶん、「組み立て」という動作が消え去ってしまう。

ユーザーは、それぞれ好みのパーツを買ってきて、 マザーボードだとか、キーボードだとか、何となくお互いを近い場所に置いておけば、 お互いが勝手に通信を初めて、それは一つの「パソコン」として機能しはじめる。

配線のない世界からは、「接続」が必要な状況が追放されて、結果として「組み立て」は、 ユーザーによる「選択」へと置き換わる。「組み立て」でお金を稼いでいた人達は、 市場に居場所を失って、別の会社が台頭するかもしれない。

「あって当然の何か」を一つ無くすだけで、「もの」に付随する様々な動作が一緒に消えたり、 変容したりして、世の中はいろんな方向に変化する。

診断のいらない世界が来てほしい

救急外来という場所は、ほとんどあらゆる患者さんが通過するはずなのに、 やりかたはこの10年ぐらい、あんまり変わらない。

毎年のように、新しい教科書が出版される。胸部外傷で注意すべき疾患は何なのか。 最初にどんなことをやるべきなのか。語呂合わせで覚える大切な10疾患は、 この10年変化がなくて、語呂合わせの方法だけ、何か進歩があったみたいだけれど、 覚えるべき疾患名それ自体は、変わらない。

機械は毎年進歩しているのに、CT はやっぱり、「すぐに撮ってはいけない」なんて書かれてる。 診察だとか、問診だとか、何よりも「診断」を重視しなさいなんて、 10年経っても、教科書が変わっても、やっぱり権威は、そう繰り返す。

技術としての救急診療を進歩させたいのならば、やっぱり何よりも、「診断」を追放するやりかたを考えてほしいなと思う。

「診断」がいらなくなれば、もちろん「診察」も不要になって、 医療の現場からは、「医師の判断」という動作が追放される。

判断が存在しないから、病院でできることは、日本中どこでも一緒になって、 一緒であるが故に、「医療過誤」は、原理的に発生し得ない。「診断のいらない医療」 が実現したところで、助かる人は助かるし、亡くなる人は、やっぱり亡くなってしまうのだけれど。

しゃべれないし、診察できない、症状があっても所見が現れない、寝たきりの超高齢者の診療は、 そもそも診察が全くできないケースというのが、珍しくない。

「何となく具合が悪い」なんて、ごく漠然とした症状で病院に来て、 とりあえず胸腹のCT 切ったら腸閉塞だったとか、肺炎だったとか。 あるいは熱が出て、熱源調べようにも、体中熱源みたいな患者さんで、 しょうがないから抗生剤適当に選んで使ったら、何となく治ってしまったとか。

「そんなやりかたすれば、馬鹿にだって治せる」だとか、 「間違ってはいないけれど、それは邪道だ」とか、教科書書くようなえらい先生が罵倒する、 「診断」を回避するやりかたは、たぶんいろんな病院で、それでもこっそり行われている。

教科書からは観測できないだけで、「診断のいらない未来」は、もう老人病棟の片隅で、 すでに始まっているのだと思う。

世界を変えるパッケージ

何か新しい技術を足したのなら、世界からは、別の何かが消えていかないといけない。

「何も消えない世界」では、いろんなものが、一方向的に複雑化する。 あらゆる技術が「こんなに複雑になりました」なんて、 自己言及的に、自らの正当性を主張して、進歩してるのに、みんなが不幸になっていく。

「あって当然の何か」を世の中から消し去るのに必要なのは、技術それ自体の進歩よりも、 それらを組み合わせて「それがいらない未来」を示す、パッケージングの力なんだろうと思う。

車でないと運べないぐらいに大きな「自動車電話」が登場した昔、 あれは高価で、実用的とは言いがたかったけれど、それでもたぶん、「それが世に出た」ことが、 携帯電話への進歩を加速した。

レジオネラや肺炎球菌、各種ウィルスの検査キットとか、たしかに新しい学問の産物なんだろうけれど、 今のところはまだ、手続きを複雑にする以上の成果が出せていない気がする。

あれなんかもたぶん、技術者は、主要な細菌の検査精度を上げていくやりかたを目指すよりも、 まずは同定できる菌腫を増やして、「採血一滴、主要菌30種類を一気に同定できる」未来を、 とりあえず製品として作ってしまったほうが、世の中大きく動くんだと思う。

そんなキットが発売されたら、感染症の領域からは、もう診断がいらなくなる。診察も不要になる。 採血で「○○菌感染症」が分かるようになったなら、その時点で使用すべき抗生剤も決まるから、 あとはもう、その人が肺炎だろうが髄膜炎だろうが、感染部位の特定は、予後に貢献できなくなってしまう。

そんなキットを今作ったところで、それは恐ろしく高価であったり、診断精度はまだまだ不十分で、 権威はやっぱり、「そんなもの必要ない」なんて言うんだろうけれど、 誰かがそれを示したそのときから、いろんなものが、きっとその方向に向かって動きはじめる。

権威はアートを否定してほしい

たとえば原因が分からない発熱の患者さんが来て、「ここに肺炎の患者さんがいる」と宣言して、 絶食にして、ガイドラインどおりの抗生剤を開始したその時点で、人体からは、ほとんどあらゆる細菌が死滅する。 髄膜炎から軟部組織感染症、呼吸器、心臓、腎臓、あらゆる消化管感染症、 全ては「肺炎ガイドライン抗生物質」で、消滅する。

それやって3日間、検査をフォローして悪くなってたら、その人はそもそも感染症でないか、 その人は結核に感染しているか、どこかに膿瘍を作っているのか、可能性は絞られる。

結核だとか、膿瘍ができる場所なんて限られてるから、この時点で胸と腹のCT を切れば、もう診断はつく。

こういうやりかたをすると、あとからどのタイミングで突っ込まれても、 「常にあらゆる可能性を考慮に入れていました」なんて、あと知恵の言い訳ができてしまう。 こういうのは邪道だけれど、言い訳レベルで無敵であるが故に、これから絶対広まってく。

偉い人たちは、もちろん眉をひそめるんだろうと思う。その人達が、 こういうやりかたをどうしても阻止しようと思ったら、権威自らが別の未来を描いて見せなきゃいけない。

アートを研鑽してきた権威は、権威だからこそ、自らのアートを否定してほしいなと思う。

「これはもういらないよ」なんて、アートを否定したベテランはパラダイムシフトを起こすけれど、 それができない、変化を拒む人たちは、たぶんもうすぐ老害になる。

自分たちの業界にも、大きな変化を起こすだけの素地は、もう出来上がっている。 総合診療部だとか、救急部みたいな、「診断のアート」を鍛えた権威が誰か一人、 「これはもういらないよ」と宣言するだけで、きっとすごく面白いことが起きるはず。

来年もよろしくお願いします。。