「病院戦術学」みたいな学問がほしい

たとえば軍隊ならば、同じ地形、同じ敵、率いる部隊も同じにしたとき、 その軍隊に所属する将軍は、たぶん誰もが同じ作戦を「定石」として導き出す。

戦争の科学「軍事学」には、「戦術学」という領域があって、士官になる人達は、状況ごとの兵士の動かしかた、 状況判断のやりかたを学校で習う。将軍達は「定石」を共有できているから、 不確実な「戦場」を相手にしているときであっても、そこに集まった人の能力を有効に利用できる。

結核患者さんのこと

以前に一人内科をやっていた病院で、人工呼吸器を付けないといけないぐらい、 具合の悪い結核患者さんを診ていたことがある。

結核はまわりの人に感染するし、本来は結核の専門病院に移すべきなんだけれど、 具合が悪くてそれどころじゃなかった。

人工呼吸器がついていて、部屋も集中治療室だったから「個室隔離」なんて無理。 どうしていいのか分からなかったから、とにかくまわりのベッドをどけて、みんなにマスクを付けてもらって、 県の保健課に「専門家にアドバイスを受けたいので、誰か呼んで下さい」なんて泣きついた。

結核はもちろん古くからある病気だし、このときみたいなケースは決して珍しくないだろうから、 こういうときにどうすればいいのか、個人的にも興味があった。

限られた設備、限られた備品の中で、 自分達の感染確率を下げて、菌の伝播を防ぐ「陣地」を、どうやって構築すればいいのか。 専門家は、きっとそんなノウハウを持っていると信じてた。

「権威」がやってきて、歓迎して、状況話して、集中治療室に案内した。看護師さん達だって 自分達のことだし、どうやって自分の身を守ればいいのか知りたがってたから、みんな集まった。

権威は一言「皆さん頑張ってるみたいだから、たぶん大丈夫だと思いますよ」なんて告げて、 一同が唖然とする中、「5時になったので、これで」と帰って行った。二度と来なかった。

要するにたぶん、少なくともその地域には、薬を選んだりだとか、 菌を同定する専門家は居たのかもしれないけれど、その時の状況で、 感染症に対して「どう」戦っていけばいいのか、それを説明できる人なんて、誰もいなかった。

「分からないもの」との戦いかた

何か「未知」だけれど「致命的」な感染が発生したとしても、医師にはまだ、できることはある。

未知であるものに対して、薬や手術はもちろん役に立たないけれど、感染の状況を調査して、 患者さんを適切に隔離することで、病気の拡散を阻止して、最終的に、「未知の何か」を 封じ込めることはできる。

市町村レベルの大きな話でなくても、たとえば感染した患者さんのベッドを、治癒に向かいつつある 患者さんが作る「免疫の壁」で囲えば感染は広がらないし、医療従事者もまた、花粉を運ぶ昆虫よろしく 病原物質を持ち運んでしまう。これはトレードオフの問題だから、 動作線を工夫するだとか、適切な場所で衣服を着替えるだとか、 「分からない何か」に対して、状況ごとの最適解みたいなものが存在する。

専門家は本来、病気の種類や病棟の設計、電源の場所、スタッフの人数みたいな情報が 与えられたら、状況ごとの「正しいやりかた」を、演繹的に導くことができる。

そういうことは絶対に理論化できるはずなのに、いくら探しても本に書いてないし、 保健所みたいな専門機関に相談しても、「こうすればいいんです」なんてやりかたを教えてくれない。

あの人達は、ただただ「頑張ってるみたいだからたぶん大丈夫ですよ」なんて精神論放り投げて、 時間どおり、5時になったら自宅に帰る。

  • 個室に隔離するなら、そこにどういうものを準備すればいいのか
  • 個室が無理なら、どうすれば「次善」が得られるのか
  • スタッフの着替えが必要ならば、着替える場所は、ベッドから見てどの方向に作ればいいのか
  • 患者さんのベッドと、部屋のドアとは何メートル離せば大丈夫なのか
  • スタッフの動作線は、どう設定すれば感染確率を下げられるのか

患者さんの病状と感染様式、病棟の配置や大きさと、病棟スタッフの人数が分かれば、 理論を知っている専門家なら10人が10人、こういう疑問に対して同じ答えを出せる やりかたを、感染症学の一分野として、教科書で学べたらいいなと思う。

人の力をかけ算する

軍事学」の分野として「戦術学」があるように、自分達の領域にも、 何か「医師の戦術」みたいなものを論じたり、それを教えるような学問がほしい。

医学というのは、軍事と同じく総合学でないといけないのに、今自分達が習っているのは、 軍事学で言うところの「軍事工学」ばっかり。みんな「武器」にばっかり異様に詳しいのに、 肝心の「戦いかた」だとか「攻めかた」「守りかた」みたいな、本来基本であるはずの考えかたを習わないから、 対峙した同じ状況に対して、考えかたの「定石」を共有できない。

それが防衛大学校であってもウェストポイントであっても、同じ軍事学校を出た士官の人達は、 同じ状況に置かれたら、まずは同じ戦いかたを「定石」として導ける。

戦場というのは不確実なものだけれど、お互いの思考プロセスが共通しているから、 不確実なものに対して、「定石」の共有を前提に、生産的な議論ができる。

将軍はしばしば定石を破るけれど、お互いに状況ごとの「正しいやりかた」を共有できているから、 それは「型破り」な作戦として成功して、「型無し」に陥ることを回避できる。

定石を共有した人が集まると、力は「かけ算」として効いてくる。「2」の力を持った人が 3人も集まると、力は「6」ではなく「8」になる。

医療従事者は、「我々は科学者である」といったような伝統をどこかに引きずっていて、 みんな「優秀な個人」であることを志向するけれど、集団として力を発揮するようには、 そもそも教育されないし、そういう考えかたを目指す学問が、医学にはたぶん、存在しない。

共有できる「定石」を持たない人がいくら集まっても、力は「足し算」にしかならない。

医療崩壊」が叫ばれて久しいけれど、崩れかたは地域ごと、病院ごとにばらばらで、 生き残った施設に優秀な人が集まったところで、集団は「形無し」になって、また崩れてしまう。

同じ病院の中で、同じ患者さんを診察して、「第一内科」と「第二内科」と、 診療のやりかただとか薬の使いかた、検査の出しかた、回診のタイミングとか、 同じ病棟にあっても全く違うことなんて、たぶん今も昔も日常茶飯事。

医療という行為にはだから「戦術」の概念がなくて、ガイドラインが叫ばれる現在でも、 それはそんなに変わっていない。

個人の能力で「10」とか「100」とか持ってる人がゴロゴロいる業界なんだから、 「かけ算」できる状況が整えば、まだいけると思うんだけれど。