喧嘩作法としての相対化

定説に抗いたい、あるいは定説が「真実」として動かない状態からは利権を引っ張れない人たちが、 定説を「運用」可能なものへと変換することで、状況を大きく動かす。

まだまだ不完全だけれど、一般化して応用できそうな喧嘩のやりかた。

飴では変わらない

救急に補助金出せだとか、現場をもっと保護すべきとか、 「何でもいいから飴よこせ」なんて自分が叫んでたのは、たぶん1 年ぐらい前まで。

何がきっかけなのか分からないけれど、 なんとなく「それではたぶんダメなんだ」と思うようになったのは、まだ最近のこと。

原体験は今から10年ぐらい前。

救急の現場には人があふれてて、産婦人科にローテートする研修医は、 「お前ら楽できてうらやましいな」なんて言われてた。自分達はまだ研修医。 どう考えても人数は増えて、医療だって10年分進歩したのに、現場回してる感覚は、 やっぱり前より悪くなった。マスコミが悪いとか、患者増長しすぎとか、 あるいは厚生省黒幕仮説とか。みんなでいろんな仮説を考えたけれど、 「ここを直せば時計の針が逆転する」何かというものは、やっぱりみつからない。

イヌのしつけなんかでは、「ほめる」やりかたと「しかる」やりかたとがあって、 効果はどちらも同じ。「ほめる」やりかたは時間がかかるけれど長持ちして、 「しかる」やりかたには即効性が期待できるけれど、しつけを忘れるのも速い。

どちらでもいいのなら、「ほめる」やりかたでいいはずだけれど、やっぱりそれでは変わらない。

困っている現場がいくら「飴ちょうだい」を大合唱したところで、 世の中にはもっと大勢の、飴なんてなくても困らない、変革を望まない人達、 それは医師会の中の人であったり、政府の中の人達であったり様々だけれど、 そんな人達が現状維持を望む限りは、政府には変革を行う動機も、 もちろん「飴」を放り投げる動機も発生しない。

だから変わらない。

「問題の相対化」という方法

常識だけで運用されていた場所に、無理筋の仮説を突っ込んで、 従来通用していた「事実」を信じてた人達を巻き込んで、 大きな譲歩を引き出すことに成功した人達。

彼らがやったことは相対化。元々通用していた「常識」とか「真実」を相対化して、 自分達を利する既成事実を運用して、常識にあぐらかいてた人達を、 議論のテーブルに引きずり出すやりかた。

不完全な一般化を行うなら、たぶんこんなかんじ。

  1. 何か「きれいごと」に満ちた理念をぶち上げる
  2. 交渉に引きずり込みたい相手と自分達に共通する「失って困るもの」を探す
  3. 「きれいごと」を実現するために、「失って困るもの」を奪ってくださいと国家に提案する
  4. それを奪われると本当に困る人達は、こんな意見を無視できなくて議論のテーブルに出てくる
  5. 相手が「テーブルについた」その時点で、従来通用していた事実は絶対性を失う
  6. 相手が「事実」にしがみついている隙に、既成事実を拡大、運用して、相対化を進めていく

「きれいな理念」と「失って困るもの」

空気というものは、「押される」のではなく、「吸引」を受けることで、 はじめて風として動き出す。空気みたいな人間の集団もまた、「得ること」では 動かなくて、「失うこと」を通じてはじめて、問題を自分のものとして認識する。

「変わらない事実」を信じてた人達、そこから有形無形の利権を引っ張っていた 大多数の人達を交渉のテーブルに座らせて、状況を動かそうと思ったならば、 彼らが何か失って困るものを見つけ出して、それを「我々もろとも平等に奪ってください」と、 偉い人達に提案すればいい。

提案は平等で無ければならない。相手方が一方的に「失う」ルールを提案しても、 それは政府に響かないけれど、自らを含めて「 平等に奪ってください 」を行うと、 たぶん政府は動かざるを得ない。それは利権誘導でなくて、「国民の声」だから。

最近大成功したのは、二酸化炭素排出取引を考えた人達。

エコロジーはたしかに大切だけれど、エコ企業を誉めたたえるのに自動車使ったり、 二酸化炭素たくさん出してる企業をつかまえて叩いたりしても、やっぱり効果は限定的。

彼らは最初に「環境守ろうよ」なんて理念を作って、「空気はタダ」という真実に対する相対化を試みた。

空気というのは、今も昔ももちろんタダだったはずなんだけれど、 彼らはこれに価値を見出して、あまつさえ「我々を含めて、空気使っている人全員に税金かけて下さい」 なんてやりかたで、政府に提案を行った。

政府は税金大好き。増税できるなら、きっとどんなヨタ話だって信じる人達。

このお話も、「工場にだけ税金をかけよ」なんて提案だったら、恐らくは反対意見が続出してうまく行かない。 二酸化炭素ビジネスの人達は、「我々も含めて全員に」をやったから、 政府は「環境のためにこう望んでいる国民がいる」という論理が使えて、話は動いた。

話が動き出せば、今まで「空気はタダ」だと信じてた人達も、動かざるを得ない。 空気は今も昔もタダ。何も変わらないのに、もはや「有料だよ」という意見を笑い飛ばすだけでは 済まされなくて、「無料」を通そうと思ったならば、彼らもまた、 「環境守るの大切だよ」という理念を挟んで、空気で商売試みる人達と対決することを避けられない。

「失って困るもの」を「平等に奪ってください」と政府に提案すると、 こんなわけで多数派は、議論のテーブルにつかざるを得なくなる。議論の席に多数派が座った時点で、 すでに「相対化」はほとんど成功している。

真実の市場化と事実の運用

多数派が議論の席に座った時点で、すでに「事実の相対化」は成功している。

「水はすべてを知っている」であれ、「ホロコーストは無かった」であれ、 従来「そんなことは無い」という真実で安心していた多数の人達は、 それを笑い飛ばすだけでは済まなくなって、はじめて交渉のテーブルにつく。

「事実は絶対のもの」と考える人にとっては、「交渉」というのは事実の検証。 ところが事実の相対化こそが目標の人にとっては、交渉のテーブルは、 あらゆる価値が運用される「市場」。

事実を検証する人達が大量の証拠を持ち出すほどに、交渉のテーブルにつく人の 肩書きが重々しいほどに、真実の「市場価値」は高まっていく。

「相対」主義の人にとっては、事実というものは、証明するものではなくて、 運用するもの。検証の結果などは問題ではなく、「仮説が検証を受けたこと」それ自体が、 ちっぽけな仮説に無限の運用可能性を与えてくれる好機と考える。 勝利というものは相対的なもの。議論に「勝つこと」それ自体も目標ではなく、 運用された事実から利益を取り出す際の通過点にすぎない。

相手を持ち上げて利権を拡大するやりかた

議論を「証明の場」だと思っている人たちは、無責任な仮定を持ち出した相手を非難するけれど、 議論を市場だと思っている人たちは、逆に相手を褒めちぎる。それがまた利益を生むから。

「相対」主義の人達というのは、最初はもちろん、極端な仮説を持ち出す少数の団体。 だからこそ、一度「同じテーブルに座った」という既成事実は、最大限に運用できる。

交渉のテーブルについてくれた相手は、それが科学者ならば「伝統科学の世界的な権威」になるし、 それが企業ならば、どんなに小さな会社であっても「世界的な大企業」として喧伝される。 そんな「権威」と対等の議論をして、一歩も引かなかった自分達は、だからこそすごいんだなんて。

議論に対する考えかたが異なる人達は、だからこそ議論にならないし、 何かを「証明」しようとして議論に参加した人達は、 「参加した」という事実それ自体すら、相手の思うままに運用されてしまう。

相手が議論のテーブルに座ってくれたその時点で、「相対」論者はすでに勝利している。

誰も相対化から逃げられない

銀行は、「タンス預金」の中からも、自由に利益を吸い上げることができる。 彼らは泥棒ではないけれど、お金の「運用」を行うことで、逮捕されるリスクなしに、 誰のお財布の中にでも手を突っ込める。

たとえばそれは、原油の値上がり。アメリカあたりで大損した人達が、 損を回収するために原油の値上げを行って、物価が上がった。 原油の産出量も、小麦や野菜、肉の生産量も変わらないのに、物価は上がって、 お金の価値が減る。減ったぶんの利益は、為替の値上がり分として、銀行に集まる。

「相対化」という現象からは、誰も逃れられない。

「水」商売にしても、キノコ商売や空気商売にしても、それを「下らない」と笑うことは 簡単だけれど、みんながよりどころにしていた事実は、もはや相対的なものに変貌しているから、 笑ったところでお金は逃げていく。それが嫌なら、自らもまた「運用」の競争に参加するしかない。

「水」屋さんとか「キノコ」屋さんは商売だけれど、 環境の人達とか、たぶん歴史修正主義の人たちなんかですら、 あくまでも目標にしているのは「みんなで議論する」ことだから、 彼らにとっては、みんなが憮然としながらテーブルについた時点で、十分「成功」だったりする。

「相対論者」の叩きかた

相対論を操る人達は、だからこそほとんど無敵で、議論に敗北したことそれ自体をも 自らを拡大するための武器として援用するから、事実の絶対性を信じる人達が、 彼らを論破するのは不可能に近い。

「絶対」側の人達が取るべき戦略は、「全組織をあげて、全力でブッ叩く」。

それは蚊を潰すのと一緒。人間が蚊と対峙するときに、人差し指一本しか使えなければ、 人間は蚊にすらも絶対勝てない。足がなければ動けないし、腕がなければ叩けない。 目がなければ、そもそも相手を補足できない。1 グラムにも満たない相手に、60kgからある動物が フルパワー出すなんて大人気ないけれど、人間が「大人」でいるうちは、蚊は家中を飛び続けて、 自らの存在感を無限に大きくしていく。

相対化を仕掛ける人達を叩こうと思ったならば、だから「全体」を動員しないといけない。

「水」商売の人達と勝負するなら、日本中の物理学者全員が、一致団結して「あれは嘘です信じないで下さい」 をやらないといけないし、中途半端な「本気」しか見せられないのなら、 たぶん「真実」はますます強力に相対化されて、彼らはもっと強力になる。

また医師会のこと

変わらない状況に眠りこけてる医師会のおじいちゃん達を交渉のテーブルに引っ張り出そうと思ったならば、 だからこそ「ここに爆弾投下してくれ」なんて声明を、政府に向かって出さないといけない。

「ここ」にはもちろん医師会の先生がたも、現場回してる勤務医も、 滅亡寸前の産科医もいて、爆弾は平等に降ってくる。

それはお互い大ダメージだけれど、「医療を適正化するために」なんて 薄っぺらいお題目から要請された「爆弾投下」なら、国はきっとそれに応えるし、 医師会の人たちだって爆弾落とされるの嫌だから、「お前ら止めろ」なんて、 交渉のテーブルに姿をあらわす。

医師会の奥にいる爺医の人達は、「変わらない日常」からこそ利益を出してるから、 彼らの最善手は「守り」。医師会の守備力それ自体は最強に近いから、 戦ったって勝てないし、叩いたって変わらない。

動かないことで得する人を相手にしようと思ったなら、 だからこそ「変わらない」何かを相対化して、勝手に運用してしまうことで、 強引に議論に引っ張り込むのが最善手なのだと思う。

相対化の第一歩、彼我に共通する「失いたくないもの」なんて、勤務医と医師会となら、 いくらだって思いつく。それは都市部の「地の利」だっていいし、 「医師免許の更新制度」みたいなものだって、そこから何かを相対化できるはず。

マスコミとか司法。医師側がやられっぱなしの彼らにしたって、 共通する「失って困る何か」さえ見つかるならば、あるいは彼らを「市場」に 引きずり込んで、運用することだってできるかもしれない。

みんなが置かれる状況とか、あるいは医師の懐具合とか、 こんなやりかた仕掛けると確実に悪化するけれど、 「状況を何とかしたい」と思う人達にとっては、これが現実解に近いと思う。