技術の接木可能性

技術は過去に蓄積してきたものの延長線上にしか発達しえないし、 そうではない、本当に画期的な提案というのは、たいていの場合過去によって潰されてしまう。

それが優秀であろうが無かろうが、今までみんなが使ってきた技術というものは、 「みんなが使った」そのこと自体が価値をもって、もっと優秀な技術が出てきても消えない。 たとえそれが虫垂みたいに事実上不必要なものになっても、消え去ることはない。

未来に可能性のある技術が生き残るとは限らない。技術の行く末を左右するのは、 むしろ過去の蓄積に対する「接木」の行い易さであって、接木可能性を持たない、 蓄積してきた過去の書き換えを要求するような技術は、それがどんなに画期的なものであっても、 それが発展する可能性は少ない。

革新的で、しかも発展を遂げるような技術というものは、古いルールを置き換えるような やりかたではなくて、古いものを巧妙に隠蔽するようなやりかたを行って、 過去を包み込むことで、見た目の世界を書き換えようとする。

よく探せばきっと、過去の技術はその中心部に隠されて、しっかりと残っている……はず。

遺伝子治療のこと

あと5年もすれば、君達内科医の仕事は無くなって、 我々が作った遺伝子を注射するだけで万事解決する時代がきます

遺伝子治療の(自称)大家が講演したのは研修医の頃。

「わぁすげえな」とか「どんなことになってもあいつの遺伝子だけは絶対使わねぇ」とか、いろんな感想。

あれからもう何年も経って、遺伝子治療もだんだんと実現に近づいてはきたけれど、 未だに足踏み。

もちろん「注射一発で糖尿病完治」の世界はまだまだ遠いけれど、 もっと小さな進歩はいくつもあって、「遺伝子注射すれば血行回復」あたりなら、 実験室出てそろそろ実用。それでも足踏み。

遺伝子治療の未来はすごくて、技術が進歩するならば、事実上どんな病気でも治せるし、 その可能性は無限大。この「無限」がネックになって、治験が進まない。

遺伝子治療再生医療

「未来の治療」の両横綱は、遺伝子治療と再生治療。

未来はまだまだ先。「注射一発…」も、肝臓とか腎臓を生やすのも無理だけれど、 遺伝子治療のある側面と、骨髄幹細胞を使った再生医療の守備範囲とは 一部で重なっていて、同じ病気を、微妙に違った角度から治療する試みが始まっている。

閉塞性動脈硬化症という疾患があって、血管が動脈硬化で細くなりすぎて、 今までの医療技術では、十分な効果が期待できない人がいる。血管を遺伝子で誘導したり、 あるいは新しい血管を生やしたりする技術には期待が持てて、この分野はいま臨床治験が始まっている。

治験を行っている施設も違えば科も違うから、一概に比較は出来ないけれど、 2つの「未来の治療」はこの分野に同時期に乗り出してきて、予算はたぶん、 遺伝子治療のほうが潤沢に持っているけれど、治験そのものは再生医療の人達が 圧倒的にリードしているように見える。

素朴な安心モデル

技術進歩のネックになっているのは、研究室レベルのお話ではなくて、臨床治験の部分。

技術はどこかで研究室を出て、人間にそれを試さないといけないのだけれど、 遺伝子治療は可能性が広い分、人間で試すのが極めて難しい。

遺伝子は何だって出来るし、注射した遺伝子がどこに飛んで、そこで何を行うのか、 予期した反応以外のことは、何も予測できない。

何があるのか分からないけれど、患者さんには安心を保証しないといけない。

病気の場所以外、その人の身体に瑕疵があったとき、遺伝子は何をするのか誰にも分からない。 遺伝子治療の治験を行うときには、だから「今までの治療では解決不可能なぐらいに重症で、 なおかつ病気の場所以外は心身ともに健康そのもの」の人を探さないといけない。

そんな人いない。

再生医療は、そのあたりもう少し分かりやすい。

今やっているのは、患者さんから骨髄液を採取して、それを血液の循環が悪い部分に注射すること。

患者さんの体から取り出した液体を、患者さんの身体に注射するだけだから、 「何もおきない」ことはあっても、「何かとんでもないことがおきる」可能性は、恐らく低い。

「臓器を何もないところから生やす」段階になれば分からないけれど、再生医療の文法は、 遺伝子治療に比べると素朴な安心モデルを描きやすくて、だからこそ治験が進んで、 応用範囲がゆっくりと拡大しつつある。

技術の接木可能性について

今まで登場してきた画期的な技術とか、あるいは新しい考えかたが、 古い技術や考えかたを世界から完全に駆逐したケースは存在しないか、たぶん極めて少ない。

新しい技術の分かりやすさとか、素朴な安心モデルというのは、 要するに過去に蓄積してきた技術との親和性や、接木可能性の高さ。

技術もまた、コミュニケーションの問題からは自由になれない。 どんなに未来の可能性が豊かな技術であっても、過去の蓄積を否定する、 あるいは過去への接木が不可能な技術というのはたぶん、結局上手くいかないか、 過去の蓄積によって滅ぼされてしまう。

「世の中を変えた新技術」というものは、たぶん過去を書き換えたわけではなくて、 過去を巧妙に隠蔽することで、その新しさを出している。

たぶん未来が約束されつつある再生医療なんかも、人体を一から作り直す方向なんかには行かなくて、 せいぜい進んで、臓器ごとの再生にとどまるはず。それを人体に移植するのは外科医の仕事。 どんなに医療が進歩しても、たぶん昔ながらの外科医の仕事はなくならない。

たとえば音声認識なんかは「文字を書く」という技術からは逃れられないし、 動作指示は「ボタンを押す」とか、「スイッチを入れる」なんて行為からは自由になれない。 スタートレックみたいな音声だけで全ての指示を行う未来は、だからこそ来ることはないし、 自分達はきっと、30世紀ぐらいになってもキーボードを使いつづける。

接木を重ねた技術やルールは不恰好だけれど、未来というのはたぶん、 過去の延長線上にしか存在しないし、過去を否定する未来技術というのはきっと かっこよく見えても根付かないのだと思う。