医療はサービスか

その昔、私が行政に飛び込んだ時に行政事務文書の「医療サービス」という用語を見て、 上司に医療をサービスとするのは奇妙ではないか?と疑問を呈したことがある。 今で言うサービス産業と同等に医療を扱うのは奇妙ではないか?と聞いたのであるが、 上司の説明は厚生省も医療サービスという用語を使い、医療はサービスと考えるのは当然だというものだった。 敢えて誤解されるのを覚悟して単純に考えると、市場では売り手と買い手が存在し、 物を売る場合とサービスを売る場合がある。まさにサービス産業のそれが医療サービスだとすれば、 医療者は医療というサービスを消費者に売るわけである。 最近の医療概念について思うところより引用。

医療がサービス業でないとしたら、何なのだろうか。

サービスとは、一方が他方に対して提供する行為やパフォーマンスで、 本質的に無形で何の所有権ももたらさないものをいう。

どんな職業も、サービスからは自由ではいられない。

純粋にものを作る職業であっても、その商品の性能とか、ブランドに対する信頼といった、 「形の無い何か」に対する対価を受け取らざるを得ない。

ものを作る職業と、サービスを売る職業とは地続きのものだ。 全ての職業は、この2つの要素を様々な割合で含んでいる。医療という職業も、たぶん同じ。

サービスの2つの側面

純粋なサービス業というものは存在しない。

サービスが占める割合には差があっても、 どんな産業でも何かの「もの」を作って、これに対して対価を受け取っている。

対価を受け取るものの価値が全くないとき、それはもはや産業でなく、単なる犯罪。

詐欺師とゴロツキ。

何の価値も無いものから対価を受け取る「純粋なサービス業」の起源は、このどちらかに帰着できる。

  • 詐欺師は、何かに対してお金を使った時に得られる「満足感」から対価を得る
  • ゴロツキは、お金を払うことで得られる日常の継続という「安心感」から対価を得る

過去と未来と。

詐欺師は過去を賞賛する。この商品はすばらしい価値を持つ、 この商品を勝ったあなたはすばらしい方だという賞賛は、お金を受け取ったその瞬間に消えうせる。

ゴロツキは未来を保証する。お金を取る代わり、少なくとも翌日1日ぐらいはお金を払った人は ゴロツキの暴力からは無縁でいられる。

医療というゴロツキ型のサービス

医療という産業のサービス要素は、どちらかというとゴロツキ型のサービスだ。

医療従事者が作る「もの」というのは、医療従事者の汗や冷や汗、睡眠時間といったもの。 その品質に相当するのが、治癒率とか、安全率とか。

患者に「様」をつけるべきかどうかという議論が時々出るけれど、「様」論議は 詐欺師型のサービスに必要なものだ。

医療が本来求められるのは 未来の保証であって、過去に対する満足感ではない。

ゴロツキ型のサービスを成功させるには、とにかく契約者との約束を守ることにつきる。

ゴロツキが誰かを殴らない保証。保険や株式。国民年金や、税金といった国のサービス。

役所がいくら愛想がよくなったところで、未来に対する保証がなされない以上は 満足度は向上しないし、医療もまた同様。

無用なトラブルを避ける意味では ていねいな言葉遣いは基本だけれど、それは本質的な解決策にはなり得ない。

安心を保証するものは何か

IBMthinkpad というノートパソコンは、そんなに性能がいいわけじゃないけれど 技術系の人に愛好される。自分も使ってる。なんとなく、かっこよさそうだったから。

信頼性はたしかに高いけれどベストというわけではないし、重量や、性能的な面では 他社のノートパソコンに比べて遅れをとっている。キーボードだけは本当にすばらしい けれど、これも好みの問題。

IBMが何故技術者に好かれているのか?」という問題の答えの一つが、すべての部品の 分解マニュアルが整備されていることなのだという。

thinkpad は、その気になれば自分で修理できる。これが安心感につながっている。

医療というサービスで未来を保証することは難しい。

「売っているものの品質」に相当するのは安全率だけれど、これを向上させるためには 莫大なコストがかかるし、経験年次が上の医師でないと、安全性の向上を達成するのは 困難だ。

その一方で、医療産業のサービス部分、安心感を向上させることなら、 研修医にだって出来ることはある。

  • 今行われていること、今抱えている問題点、治療者側が考えていることをなるべく分かりやすく説明すること
  • 病気や治療の数日先、あるいは数ヶ月先のロードマップを示すこと
  • ロードマップが予告どおりになったときの次の手、あるいはそれがうまくいかなかったときの次の一手を示すこと

こんなことぐらいじゃ解決しないことはたくさんある。

産科救急なんていう問題はまさにこの類で、今はちょっと逆風吹きすぎ。 絶対に何らかの形でゆり戻しはくるだろうけれど、このままいくと映画「皇帝ペンギン」の世界 (種の保存のため、日本中の産婦さんが何百キロもの距離を旅して、 伝説の「子供が生める病院」へと集まってくる) が冗談でなくなってしまう。

それでも、対話を続ける以外に信頼関係を築く術は無く、 これを放棄した時点で信頼なんか無くなる。

信頼関係の空白を埋める

信頼がなくなったとき、未来を志向したサービスは継続する意味を失う。 サービスの受け手は対価を支払うことを止め、新たに 「失われた過去」を査定してくれるサービスを探しはじめる。

マスコミや法律家というのは、信頼関係の空白という商品に、「解釈」というサービスを加えて 対価を得る産業だ。

おこってしまったことがどんなにひどい物であるのか。 その被害を受けた人々はどれだけ悲惨なものであるのか。その過去の描写にこそ価値がある。

大事なのは過去だけ。 そこから先の未来は、あんまり関係ない。

彼らが嫌がる行動をしようと思ったら、彼らが面白くない状況を継続すること。 商品になる「信頼の空白」を出来るだけ作らないことだ。

医療者と家族とが淡々と対話を続けている状態は、マスコミにとってははなはだ面白くない、 手の出しようが無い状況。

何を聞いても意味ありげにニヤけるだけの医療者、「真実が知りたい」と泣く家族、 医者の悪事を暴く正義のマスコミ。

こんな「面白い構図」を描かれる前に、踏みとどまってとにかく話す。

マスコミは嫌いだけれど、住んでる土俵が違うから、いくら争おうとしても 勝負にならない。

一矢報いるには、彼らの居場所を無くすしかないと思う。。