無邪気な人とのつきあいかた

無邪気さというものが敵に回ると、展開は最悪になる。

邪気のない人。いい患者でありさえすれば、いい家族でありさえすれば、 いつの間にやら医者には良心が芽生えて、患者さんは「すっかりよくなる」なんて、 心のそこから信じている人。あるいは本当はそんなことあるわけないんだけれど、 「ない」という事実から目線をそらして、思考を止めてしまった人達。

無邪気な人にとっては「邪でないこと」は大切だから、良くも悪くも損得勘定では動かない。 そんな人達が味方でいる分には、みんないい患者さんであり、いいご家族でもあり。

損得勘定で動かない人が敵にまわると本当に恐ろしい。損得を越えた戦いを仕掛けてくるから、 誤ろうが、土下座しようが、こちらの存在が全否定されるまで、もはや攻撃が止むことはない。 戦いは、取引ではなくて「悪事の報い」だから、もちろん交渉の余地なんてない。

「健全な相互不信」と「留保のない信頼」と

「いいご家族」と面談するときには、たいていの医者は心から緊張している。怖いから。

「いい関係」というのは、支えなしで地面に棒を立てるのに似て、本来ものすごく不安定な状態。 その状態を長く維持しようと思ったら、患者側と医者側、両方から棒にロープをかけて引っ張って、 安定した状態を保たないといけない。

引っ張りあいというのは、要するに健全な相互不信を維持した関係。 お互い信じていないけれど、それでも棒がまっすぐ立った状態というのは、 お互いの引っ張る力が最小で済むから、遠くからそれを見た人は、恐らくは 「いい関係」に見えるはず。

無邪気な患者さんというのは、棒が自然に立つことを信じきっていて、 ロープがそもそも見えないか、ロープを引っ張ることを放棄している。

棒はたしかに立っているけれど、医者側から見たその状態は、極めて不安定で、 しかもこちら側からできることがほとんどない。引っ張ったら倒れちゃうから、 こちらも手を緩めるしかないんだけれど、不安定な状態で立ち続ける棒は、 もはやいつ倒れるのか誰にも分からない。

「ロープが見えてる人」、医師を信じていない人とか、あるいは何かの取引を 持ちかけようとしている人は、あるいは棒を倒すかもしれないけれど、 その原因はロープの力加減だと分かってくれる。 最低限、交渉の席にはついてくれるし、トラブったところで、話は案外穏やかに進む。

無邪気な人とのトラブルになったとき、相手はそもそもロープを持っていないから、 棒は間違いなく医師側に倒れてしまう。

ロープが見えない、こんな人達にとっては、棒を立たせてきた原動力は、自分達の「邪気の無さ」。 棒が倒れた原因は、医者側の邪気だと認識されるから、そこから先の交渉は大変。

過程を無視する無邪気な人

最終的にどんな経過になったところで、ロープが見える人というのは、 そのロープの手応えを覚えているから大丈夫。ロープを介したコミュニケーションは、 力の入り具合がお互いよく分かる。

厄介なのは、倒れるその瞬間までは、棒はロープ無しでも立っていること。

無邪気な人と医師との関係は、相手が何かを不興に感じるその寸前までは、 「いい患者といい医者」との関係そのもの。医者一人が内心ドキドキなんだけれど、 「お願いだからロープ持ってください」なんて水を向けても、 無邪気な人達はやっぱりロープを見てくれない。

無邪気な人にとっては、入院経過がどうであれ、棒を立たせていたのは「邪気のなさ」 なんて見えない力のおかげだから、最終的に棒が倒れたとき、そこから先の振舞いは、 その瞬間の医師の態度で全てが決まる。どんな顔をすればいいのか、どこまで謝り倒せばいいのか、 そのあたりの基準は全て無邪気な人の心にあるから、こちら側からは全く分からない。

過程を評価してくれないこと、しばしばその思いが天井知らずで、 最悪自分達の人生がもっていかれそうになること。無邪気な人達というのは、 見た目どんなにいい人達でも、一発が怖くて油断できない。

無邪気を交渉の場に引っ張り出すために

「どこまでやるのか?」という問題は、本来予算と価値観との天秤。

ロープの引っ張りあいができる人なら、お互いのバランス感覚は読めるから、 「このへんまで」なんてサバ読みはかなり正確。

ロープが見えてない人にとっては、天秤の患者側に乗っける価値は、自らの邪気のなさ。 それがどれぐらい重いのか、反対側にいる医者には分からない。 価値は見えなくて、人によっては天井知らずで、 笑顔の裏で、天秤に国家予算がぶら下がることを信じて疑わない人がいたりして。

ロープを可視化してくれるのは、要するに「天井」なのだと思う。

無限に予算をかけても無限に健康になれるなんてことはありえなくて、 予算には本来上限があって、どんなに邪気無く振舞ったところで、 保険から引っ張れる予算には限りがあって。

「天井を見せる」という部分に限っていえば、 混合診療の導入は、個人的には大賛成だったりする。

これが始まれば、間違いなく医療費上がって、保険の範囲でできることなんて限られていく。

医師の収入も削られて、高収入目指そうと思ったならば、 診療の傍らで癌に効くキノコ売ったり、外来に「私は毎日こんなサプリメント摂ってます」なんて、 笑顔のポスター貼ってみたり。

それはあんまり嬉しい未来図ではないけれど、天井知らずに無邪気な人は、 最近になってまだまだ増えてきて、実際問題困ってる。

「保険の範囲ではここまで」なんて天井が見えて、無邪気な人は、 ここではじめてロープが見えて、きっと交渉の席に座ってくれる。

いろんな価値観を持つ人があふれる世の中、お金というのは、 自分が見える範囲では唯一、まだ共通言語として通用する価値。

「話すこと」がどうして加速度的に無意味化したのか。 どうしてお金は生き残っているのか。 本当にお金以外に使える共通言語は存在しないのか。

上手くやっている人がいるのなら、あるいは自分の無能さが原因の全てなら、 まだまだ希望も持てるんだけれど、上手く行かない人、無邪気さと交渉することは やっぱり上手くいかなくて、今のところはお金以外の選択肢を思いつけない。

保険崩壊ルールの導入は、この業界に「最後の共通言語」を導入して、 コミュニケーションの問題が相当程度解決する可能性があって、 アメリカの惨状はもちろん知っているけれど、それでもなお、 無邪気さと相対したあとの疲労感は、お金の持つ可能性に期待を抱かせる。

どちらがいいのだろう?