問題の定義可能性について

「計算」という問題のこと

たとえば暗算に対して天才的な能力を持ったサヴァンならば、計算は想起。 頭に数を思い浮かべた次の瞬間、頭の中には、計算の答えが出現する。その過程は 常人の理解を越えるけれど、とにかく答えは出る。

紙と鉛筆で筆算するなら、計算というのは書く行為。正しく書けば、正しい答え。 そろばん使いは珠を弾く。google 先生を使っていいのなら、計算というのは検索すること。 それがどんな問題であれ、それを数式にできるのならば、google 先生は何でも答える。

計算をはじめとした問題の多くは、自分自身と、その人が使う道具との相互作用を通じて成立する。

問題一つを定義するにしても、その時どんな道具を使っていいのか、「答え」を表現するのに どんな方法を使わなくてはいけないのかを定義しないと、正しいプロセスを一つに固定できない。 定義を伴わない、問題のための問題、思考のための思考というのは、存在を必要としないか、 あるいはその存在を仮定しなくても、世界を記述するのには困らない。

たとえ同じ答えにたどりついても、そこに至るプロセスが違ってくるなら、 鍛えるべき能力もまた変わってくる。

たとえばサヴァンなら、計算で一番難しいのは、言語の数式化。円周率20万桁 を暗証できる天才であっても、そういう人達は案外、「リンゴ3つとみかん5つとを足す」という ことが理解できなくて、「8」という答えにたどりつけない。

紙と鉛筆を使うなら、計算の勘所は「きれいに書くこと」であったり、「小数点そろえること」だったり。 計算機使うならボタンの押し間違えに注意することだし、 google 先生なら、全角スペース挟まないように気をつけるとか、「×とXとを間違えない」ことだとか。

「計算を上手に行う」なんて問題は、こんなわけで定義が不十分で、問題を出されたところで、 何から手をつけていいのか、何が達成できれば正解なのか、誰にも分からない。

定義の定量性と正解

「前に進む」は定義不可能問題だけれど、「競争者よりも前に進む」なら、目標が決まる。

それが絶対的なものであれ、相対的なものであれ、目標に対して参照可能な座標が定義されるなら、 問題には定量性が生まれて、「正解」を探すことが可能になる。

定量的な定義がなされない問題は、正解を定義することがしばしば不可能になる。

たとえば「相互理解する」なんて問題。漠然とした「正解」なら、 たぶん誰の頭にも浮かぶだろうけれど、その概念を言語化するのは難しい。

  • 「理解」に対して、大の男が滂沱の涙流しながら抱き合うイメージを想像するなら、 男2人並べて、そこに催涙ガス弾でも投げ込めばいい
  • 得心の行った表情でうなずく顔を想像するなら、銃を突きつけて「笑え」と命じれば、たぶん「理解」を見ることができる

正解定義のしかたは無数。その定義にたどり着くやりかたも、また無数。

頭の中には誰でも「正解」を持っているこんな問題は、定義の定量性を欠いているがゆえに、 誰にも「正解」が分からない。

治療という問題の定量

「治す」だとか「良くなる」なんかも、たぶん定義不可能問題。

医師が「良くなりました」なんて言っても、家族からは全然そう見えなくて、 退院日が決まらない人なんていっぱいいるし、美容外科医は鼻を高くすることはできても、 その人をイケメンにすることまでは保証できない。 何といっても、生きて歩いて帰ることを例外なく実現するには、 医療はまだまだあまりにも無力だし。

定量可能な言葉を使って、「医療者に有利なように」医療を定義するならば、 医療というのは「標準偏差への回帰」。人体で定量可能なあらゆるパラメーターを、 標準偏差の範囲内に戻す営み。

それが症状であれ検査データであれ、測定した何かが悪い方向に外れれば、それは病気。 過剰になったり、「良すぎたり」しても、それが行きすぎたなら病気の範囲。

測定した数字をある範囲に戻すことができたなら、その人は「治る」。

自動車だとか吊り橋だとか、精密な工学技術で作られたものというのは、ネジ一本、溶接一つ 外れれば、時として大惨事になる。人体というのは、手術が終わって何か隙間が見つかったなら、 そこに適当な組織を何となく押し込んでおけば、そのうち勝手に「治癒」にまでたどり着く。

もしかしたら「正常範囲」というのは、その人にとっては 正常でも何でもないかもしれないんだけれど、ある人が、標準偏差の範囲に一定期間置かれると、 戻した先では、その人自身が何となくその環境に適応して、自らの力で「治る」にたどり着く。 そういうことになっている。

医療というのは、だからこそその進歩には「限りなくいい方向に行く」 みたいな考えは入っていなくて、結構高い確信度で、「今の医療にこれ以上の進歩を期待するのは難しい」、 なんて言い切れる気がする。

歴史上、こんな断言した人達は、もちろん全員間違っていたのだけれど。

「自動車修理工」モデルの間違い

偏差を少なくする仕事。

医師の仕事をこんな定義で考えると、ふさわしいアナロジーは自動車修理工なんかじゃなくて、 むしろ酔っ払いを介抱する人に近い。

何か壊れたところを見つけて「直す」やりかたではなくて、 左右両方にドブ川のある道を、フラフラ歩く酔っ払いを左右に押しながら、 ドブにはまらないよう、酔いが覚めるまで歩かせるような考えかた。

医療はたぶん、左右に「押す」やりかたはいろいろ進歩させてきたけれど、 酔った本人の復元力、「まっすぐ歩く力を強くする」やりかたは、 医学はまだ手をつけていないか、もしかしたらそれは手が出せない

修理とは違うから、その仕事には本来、酔っ払いの生理学に関する知識なんていらない。 必要なのは、酔っ払いの左右への「振れ」を正しく知覚して、 それに対して適切な力で押し返すことと、近くをしてから押すまでの時間、 フィードバックの時定数を、限りなく小さくしていくことと。

医師の内的思考というのは、やはり無意味化していくのだと思う。

遺伝子治療の進歩が、あるいはブレイクスルーを産むかもしれないけれど、 あの発想は「注射一発で病気が治る未来の医療」だから、 注射打つ側には思考はいらない。医師の思考が複雑化する方向には行かないはず。

早さはたぶん、力になる。

問題に対する深い理解は一定以上の力を持ち得ない代わり、 問題を発見してから対処するまでの時間を短くできれば、治療の効果はより高くなる可能性がある。

早さとか、タイミングが勝負になる世界では、それが成熟していくと、 「プレイヤー」と「コーチ」とが分かれていく。 スポーツ全般はそういうものだし、あるいは自動車競技なんかも同じ。

シューマッハとかプロストまでは、F1 ドライバーはセッティングのプロでもあったけれど、 今のF1 競技は、ドライバーは走行専門、セッティングはメカニックの専門領域で、 車が走っているときに要求されるのは、ドライバーとしての技能だけ。

医療の専門分化というのは、一つの車の中に、エンジンの専門家とタイヤの専門家、 ボディーの専門家とサスペンションの専門家とがみんな一緒に乗り込んで、 ガヤガヤ議論しながら車を走らせているイメージ。

これでは車は速くならないし、もしかしたらまっすぐ走ることもおぼつかない。

改良へのモチベーションが現状を変えることはありえないけれど、 医療を取り巻く現状、頭打ちになる予算とか、現場のマンパワー激減とか、 そんな「外乱」が、何か新しい変革を生むかもしれない。