ムカデの足は考える

互恵的利他主義について、もう少しだけ。

ムカデという生き物は、文字どおり無数の足を持っていますが、 実に効率よく、すばやく動きます。

あの足の動きを中枢だけで制御するのは無理です。制御に要する計算量は、 足の数だけ増えてしまい、足が100本を越えたあたりで限界が来るでしょう。

昆虫は、恐らくはそれぞれの足ごとに簡単な反射弓を持っていて、 それぞれの足は、足が観測した情報だけで、その足の行動を決定しているといわれています。

MIT で作られたムカデ型のロボットは、各足ごとにサーボとCPUとを備えていました。 それぞれの足は簡単な反射弓だけで制御されており、ロボットには中枢神経に相当するものが 何ら実装されなかったにもかかわらず、 このロボットは知性があるかのように振舞ったのだそうです。

遺伝アルゴリズムによるコミュニティ最適化

ムカデだって生き物ですから、餌を食べないと死んじゃいます。餌を食べるには、 他の個体との競争に打ち勝たないといけません。

ムカデの足に意思があったとして、もしもその足の何本かが社民党の党員だったり、 朝日新聞の熱心な購読者だったりしたら、何がおきるでしょう?

  • 弱い足にだって平等な血流を受ける権利がある。循環器は我々に対して謝罪と賠償を…
  • 勝つのは大事だ。だがちょっと待ってほしい。相手の声に謙虚に耳を傾けるべきではないか

こんなことを言いだす「足」を持った個体は、餌にありつく前に、足がもつれて死んじゃうでしょう。

意見する足なんて邪魔なだけ。ならば、全ての足を中枢制御して、命令どおりに動かせたら 効率はいいのでしょうか? 国家単位でこれをやったのは、何といっても地上の楽園、北朝鮮ですが、 やっぱりあんまりうまくいっていません。

競争に勝つには走らないといけませんが、鞭打つにも限界があります。 犬の心不全モデルを作るときには、ペースメーカーで頻脈の状態を維持しますが、 上からの「意志」に基づいた制御を強制すると、足だって疲れてしまいます。

成果主義はどうでしょう?

ムカデの仕事量は、それぞれの足に流れてくる血流量で査定されるとすると、 ムカデの足はきっと、最小限の労働で、最大の血流を得ようなんて考えるはず。 何せムカデの足は無数にありますから、1本やそこいらの足がサボったところで、 ばれません。弱い振りする奴等が最強。そのうちどの足も朝日を購読しはじめて、 そのムカデは滅んじゃうでしょう。

足のことを一番よく分かっているのは、足自身。足の自由意志を尊重して、 足は各々自分にできる最適な振舞いをするだけなのに、全体としては あたかも一つの生き物のように統一した振舞いを見せる。 進化論的な時間を勝ち抜いてきた、現代のムカデの足には、 こんな制御が行われているんじゃないかと思います。

互恵的利他主義ルール、あるいは前のエントリーで書いたみたいな「菩薩ルール」で 制御されている社会では、ムカデの足はそれぞれ自由な意志を持ちながら、 同時に全体として協力しあいます。

自由な意志は大切で、尊重しなくてはならないけれど、それが個体を殺してしまっては しかたがない。自然界で生き延びてきたムカデの足は、たぶん朝日なんか読まないし、 心臓と取引なんかしません。それぞれの足はベストを尽くして、心臓もまた、それに応えて。

百足の足に自我はあるのか

足は足を知りますが、脳から足は見えません。

それぞれの足に中枢がないと、ムカデは歩けませんから、やっぱり自我はあるんだと思います。

「我」があったとして、足が持つ自我というものは、どのぐらい全体に寄与するのでしょう?

歩くムカデが石を乗り越えようとするとき、それぞれの足は、石の大きさなんて見ちゃいません。 お互い完全な信頼関係で結ばれちゃってますから、隣の足が上に上がれば、次は自分が上に上がる。 その振舞いをみて、3本目の足も続きます。

足にだって動作の選択肢があるはずです。上に上がらないで横によけるとか。

「急に石が来たので。足の内側でよければよかったが、外側によけてしまった」

たまにはこんなヘタレな言い訳して失敗する足がいたっていいはずなんですが、菩薩ルールは強力。 みんな「自分の意志」で「常に最適な動作」を決定した結果、 ムカデの動きはどう観察したって一つの生き物にしか見えません。もしかしたら足にも 自我があるかもしれないのですが、「足はこう考える」という意志は、観察者には伝わりません。

互恵的な贈与で駆動される世界が理想的になればなるほど、自由意志は 事後決定的に振舞います。自我というものは、何かを判断する場所というよりは、 環境と個体との関係から生まれる、 単純な反射弓みたいなものになってしまいます。

お釈迦様は、我の有無について語りませんでした。

その頃のインドではアートマン論争が すごかったらしくて、有るといっても無いといっても敵を作るような状況でしたから、 仏陀が語らなかったのは単なる政治的なポジションだったのかもしれませんし、 あるいは上で書いたようなこと、コミュニティが理想化すればするほど、 自我は「自由」をもつはずなのに、結果としてそれは決定論的な、硬直した 反応しか許されないものになってしまうジレンマを感じていたのかもしれません。

土人必死だな(プ と文明人は笑う

生きることが今よりずっと切実だった大昔。部族単位での生き残りを 試行錯誤していく中で、生き残ったルールが互恵的利他主義なんじゃないかと 思います。

旗振り役をやるのは、「通過儀礼」をくぐりぬけた部族の大人達。 通過儀礼というのは、どの部族でも大体共通していて、一度象徴的に「死んで」、 何か大きなものに「食べられて」、大人として生まれなおす、そんなもの。 全体を意識する大人の間に作られる自生的秩序というものが、部族をまとめます。

「ムカデかわいいよムカデ。ムカデ最高。みんなで足になろうよ」というのが仏教の大雑把な教え。

ムカデ社会、あるいは菩薩ルールと言うのは、本当はコミュニティが生きていく上での最適解。 ところが、生き残るのに切実でない人にとっては、これは土人臭い考えかたです。 そんな人に仲間になってもらうのは大変。

「足りてる人」に対する説得を放棄して、力技で仲間を作った武装集団がスパルタ兵士です。

仏教は宗教ですから、みんなに痛い思いをさせないで、 何とかして「ムカデの足になるすばらしさ」を伝えようとしましたけれど、 たぶんうまく行かなかったんじゃないかと思います。分かりにくいから。

誰でも分かる、痛くない「分かりかた」というのは、「餌」を話題にすること。

「ムカデはいいよ、足になれば餌に不自由しなくなるよ」なんてやっちゃった弟子がいて、 「約束が違う」と似非宗教扱いされたり、原点回帰をかけようとして、 いろいろややこしい決まり事を作ってドツボる弟子がいたり。

Q:「これ、○○宗でしょ?」 A:「○○って(笑)いやいや笑っちゃいけないか。原点に帰った仏教だよ」 Q:「でも御利益あるんでしょ?」 A:「違うよ。全然違うよ。」 Q:「でも、似てるじゃない」 A:「全然違うよ。全く関係ないよ。」

鎌倉時代とか、たぶん日本のどこかでこんな会話がやられてたりして。

自由意志に意味はあるのか?

社会はきっとループします。

今みたいなお金万歳的な流れだってゆり戻しがくるでしょうし、 村社会2.0 とか言い出す人きっと出てきて、通過儀礼を経た「仲間」だけで コミュニティを作るでしょう。

医療の分野だって、どうせ戻ります。もとの形にはならないでしょうけれど。 「昔を知っている人」は、絶対それを忘れません。どんな形であれ、 マスコミやら政府の人やらが今度は逆噴射して、今よりもっと滅茶苦茶になりながら、 たぶんマンパワーだけ充足するはず。医者の意志なんて関係無く。 どんな「足」にだって、どうしようもなく自我は有るのに。

自由意志に意味はあるんでしょうか?

通信系が発達して狭くなった世界。最適解と、そうでない選択肢との断絶が深くなれば、 「自由な意志が、環境との相互作用で事後的に決定される」社会に近づきます。 菩薩ルールで駆動される社会というのは、 あるいはインターネットが力技で作っちゃうのかもしれません。

自由意志というものが、外部環境から決定される行動を「追認」するものでしかないものならば、 それでも、生きることは素晴らしいのでしょうか?それとも、そこにあるのは諦念だけなんでしょうか? あるいは、自らの力でこのループを断ち切って、ネットワークを離れて「外に出る」ことなんて 可能なんでしょうか?

勤勉な精神科医が仏典調べている間、怠惰な内科は シルバーガン のことを考えます。あれをクリヤーできた勇士なら、あるいは 自由意志についての回答に答えられるのかもしれません。

私は斑鳩のときに心が折れて、それっきり。

銀銃、PCで再発売してくれませんかねぇ…。