組織の維持に必要なもの

コミュニティを互助的なルールだけで維持していくには 「最低限これだけ」という大きさがあって、それは恐らく数千人規模。 それより小さな組織を維持していくためには、 「理不尽さの引き受け手」になる誰かの介入が欠かせない。

糖尿病患者会のこと

糖尿病の患者さんは数が多くて、その多くは無症状だから、 みんなで集まって、治療のモチベーションを保つ。

患者会。いろんな病院にこんな組織があって、 多くは患者さんたちが自主的に運営している。

HbA1c は血糖コントロールの指標。過去3ヶ月ぐらいの血糖値を反映する。 見かけの血糖値を良くしようとして、外来当日に食事を抜いて来るような人がいても、 この価だけはしっかり高いから大丈夫。

  • 6以下は大体正常、あるいは、相当にコントロールがいい、模範的な糖尿病患者
  • 7台の人は、まだまだ内服薬だけで大丈夫。節制すれば、あるいは薬なしも射程内
  • 8台の人は、コントロール今一つ
  • これが9を越えてくると内服だけでは厳しくなって、医者はインスリン治療を考える

実際には数字だけではなくて、病気の発症様式とか患者さんの体格とか、 治療方針はいろんな要素が決めるのだけれど、数字は何より分かりやすくて、 患者さんはみんな、お互いの数字を比較する。

どちらのコントロールが上なのか。どちらがより「良い」患者なのか。

数字は公平。いいわけ無用で、小数点以下まで点数をつける。

みんなで「頑張って」、血糖コントロールを維持していきましょう

みんながどれだけ頑張ったのか。数字がそれを反映するとは限らないんだけれど、 分かりやすい指標は一人歩きする。

患者会のリーダーをやっている方というのは、たいていの場合数字が悪くて、 それを「頑張って」克服した人たち。みんな一生懸命いい数字を維持していて、模範を示す。

糖尿病の原因は様々。人によっては食事制限だけで良くなるけれど、 日本人はどちらかというと、最終的にインスリン注射が必要になる人が多い。

みんな頑張ってる。でもコントロールのいい人はもっと頑張っていて、そうでない人は あんまり頑張っていないように見えてしまう。誰かが非難されるわけではないけれど、 数字というのは、見えない序列を「見える」化してしまう。

相互信頼通貨の「銀行」としての医師

外来での医者の仕事は、相互信頼通貨の再分配と、自尊心の担保。

  • コントロールのいい患者さんに対しては「とてもいいコントロールですね」 「頑張ってくれたおかげで、こんなに良くなりました」
  • コントロールがつかない患者さんに対しては「みんなこんなものですよ」 「さじ加減が悪くてすいません。もう少し薬増やします」

客商売。「血糖値が悪くなりました。死ぬのはご自由に。自己責任でどうぞ」なんてやった日には 患者さんから刺されるし、なによりも、コントロールの悪い患者さんと喧嘩して、 その人の状態が悪くなったら、それはやっぱり医師のせい。

実際問題どうしようもない人だって多いけれど、 できる範囲で頑張ってる。

「弱肉強食ルール」が理想的に機能するには、それこそアフリカのサバンナぐらいの面積と、 そこで生活する動物と同じぐらいの人数が「最低ライン」で、それ以下のコミュニティを 維持するためには、たぶん銀行とか政府の役割をする人が欠かせない。

患者会の人数なんて、せいぜい多くて100人規模。この人達の「頑張り」の序列は、 その気になれば客観的な数字ですぐにソートできるし、皆さんこれに近いことを実際に行っている。

残念ながら、会のリーダーに相当する人というのは、往々にして医師に親和性が高い人だから、 血糖コントロールの悪い人達は、その責任を医者に求めることができない。

医者のせいにするならその会にはいられないし、自分のせいにするならば、 会の頑張りについていけないダメな奴として、 やっぱりその会を続けられない。

学生の頃に小児科医局が主催していたのは、小児白血病の子供達のキャンプ。

模範的な子供達が主治医と仲良く遊ぶ一方で、テントの中では「あのハゲむかつくよな」とか、 「デブ死ねよ」とか。仲の悪い子供達は、黒い会話で盛り上がる。ボランティアの学生はもちろん、 主治医を罵倒する側に混じって、座を盛り上げる。

仲のいい子供と遊ぶこと。そうでない子供から罵声を浴びせられること。

医師の役割はこの両方。どちらが欠けても序列が生まれて、 コミュニティの空気についていけない子供は、そこを去るしかなくなって。

キャンプはきっと、つらい思い出になってしまう。

山を登り始めたばかりの人は頂上じゃなくて仲間が欲しい

山の頂上に立った人は、その高さにやりがいを見出すけれど、 これから山を上る人達はきっと、「みんな平等」という世界暗示に安息を見出す。

最初は誰でも初心者とか、そのうちきっと良くなるよとか。病気になったばかりの人や、 病気があんまり良くならない人が孤独になると、しばしばそれは最悪の結果を招いてしまう。

どうやったって、病気が落ち着くにはある程度の期間が必要だし、 血糖コントロールに「序列」なんてものが 本当にあったとしたら、いつまでたっても上には上がいる世界。

糖尿病を診断されて、右も左も分からなくって、とりあえず患者会に入って。

リーダーは、血のにじむような苦労の果てにすばらしい血糖値を手にした「理想の体現者」。

その人が、初心者のだらしなさを晒しあげたなら、たぶんそのコミュニティは、 リーダー以外だれも幸せになれないはず。

初心者が最初に欲しいのは仲間であって、目標はそのあと。

「遊び」が車を走らせた

トヨタハイブリッドカープリウス」は、最初のうちは10m も走れなかったのだそうだ。

ハイブリッドカーの構造はネットワーク。

電池、発電機、モーター、遊星歯車、そしてエンジンと、 車を走らせるために関与してくるコンポーネントはたくさんあって、 それぞれの部品に制御系が実装されて、 お互いに通信しながら車を走らせる。

お互いの制御が干渉すると、車は止まる。最初のうち、プリウスはすぐに止まってしまい、 止まる原因が分からなかったり、部品を「改良」したはずなのに、 その改良が他の部品に影響を及ぼして、 やっぱり車が止まってしまったり。

ようやく車が走り出して、試作品を実用化する段階に 入ったとき、真っ先に行われたのが、コンポーネントどうしに「遊び」を持たせることだった。

プリウスの制御はすごくて、本当はモーターとエンジン、すべてを「直結」にしたままで、 速度制御ができるのだそうだ。ところがそれは理想的すぎて、条件がわずかに狂うと振動するし、 最悪止まる。

部品の間にクラッチを入れてみたり、トルク差を吸収するダンパーを入れたり。 すべては本当は不必要な、余計な部品。

余分な部品が追加されて、ネットワークの効率が落ちて。組織に「遊び」が生まれて、 組木細工のような車に柔軟性が実装されて、ハイブリッドカーはようやく公道を走った。

コミュニティを維持していくのはある種の遊び、非効率さで、それは競争原理の外にいる人にしか 付加できないもの。

それを与えられない人、非効率さを惜しむ人というのは、 やっぱり組織を束ねるべきじゃないと思う。