誰かが壊れる物語

西尾維新戯言シリーズ」。今さらながらの感想。

作家は現実を負い越せない

ありえない状況におかれたとき、人間はどう行動するのだろうか?

人種差別。障害者とのつきあい。資本分配や、社会の様々な格差。

実世界の微妙な状況を議論するのは難しい。倫理とか、「常識」とか、いろんなしがらみから 逃れられないし、極端な論を張ったら批判の嵐。

人の幸せってなんだろう?

こんなテーマをリアル世界でまともに議論すると、科学哲学から宗教、オカルトに至るまで、 いろんな分野の専門家が乗り込んできて、騒がしいことこの上ない。

大きな本屋さんの片隅、一番暗いところには、たいてい「精神世界・宗教」というコーナーがある。

ドーキンス宮沢賢治、五木弘之、いろんな宗教の本、細木数子の占い本、最近流行の スピリチュアルカウンセラー氏の本までごちゃ混ぜ。

1冊あたりの値段が3000円越えなんてザラ。テーマがテーマだけに、どれが当たりで どれが地雷なんだか、立ち読みで見切るのは不可能。

万札飛んで、全部地雷で涙を飲んだこと、何回か。

その棚の前にずっと立っていると、自分まで「そういう人なんだな」と思われかねない、 ある意味ライトノベルコーナー以上の地雷原なんだけれど、 時々本物の当たりがあるから、ここは外せない。

小説家は現実を負い越せないけれど、非現実を作り出すことなら誰にも負けない。

実世界ではありえない設定を物語世界に導入することで、作家は実世界の束縛から自由になる。

極端な天才。現実にはない何かの技術。そういうものを物語に持ち込んで、 実世界で語るには微妙な問題を極論で語る。「人間を描いた」といわれるSF 作家は、 たぶん確信犯的にこれをやる。

ロボット三原則や「冷たい方程式」問題、スタートレックの「コバヤシマル」問題なんかで 論じられている解決方法というのは、実世界のいろんな問題を考えるとき、けっこう役に立つ。

「アルジャーノン」状況

リアル議論の地雷原ぶりに比べると、SF 小説のコーナーは本当に平和。

「本当の幸せとは何なのか?」「天才になる事は本当にその人にとって幸せなのか?」

SFの古典「アルジャーノンに花束を」は、このあたりのテーマを論じた代表。

  • 画期的な手術で強制的に天才にされた主人公の孤独
  • せっかく得られた能力がだんだんと失われていく恐怖
  • 最後の最後、「本当に大切なもの」というのは、一体何なのか

ダニエル・キイスは心理畑の作家だから、たぶん痴呆老人の自験例を参考にしてあの小説を書いた のだろうけれど、あれを「心理学」の本として出版したりしたら、たぶん批判が出ること必至。

「アルジャーノン状況」というのは、普通の人を主人公にしてしまうと、 痴呆が進行する患者の症例報告にしか過ぎないから、物語化が難しい。

壊れていく人の心理なんて、当の本人が壊れているから想像するしかないし、 作家の想像なんて異論を持つ人たくさんいるから、実世界での議論が不可能。

人間の心は、技術的に破壊できても中身が読めない。 脳もコアダンプがとれると便利なのだけど。

アルジャーノンに花束を」は、「主人公は人工的な天才」という設定を導入することで、 そのあたりをうまく回避している。

アルジャーノン状況というのは、老いとか病気とか、実世界の中でも相当微妙な問題を 扱えるテーマなのだけれど、この世界観を設定すること自体が難しいからなのか、 あの作家があまりにも上手くやりすぎたからなのか、 あんまりそういったテーマのSF を読んだことが無い。

ここまで前書き。で、以下「戯言シリーズ」の感想文。ネタバレあります。

「人が壊れる物語」としての戯言シリーズ

まなめはうすで、 西尾維新という作家が高い評価を受けていたのをみて購入。

とりあえず代表作みたいなこのシリーズを9冊買って、今2周目と少し。

ちょっと肩透かし。

ライトノベルというのは、登場人物の性格描写とか、人物造形をとても大切にする分野。

戯言シリーズ

  • 全9冊の大作で、どこか歪な「○○の天才」がやたらと登場する舞台設定
  • 新しい登場人物が次々と登場しては殺されていく中、9冊を通じて舞台に立ちつづけるのが 主人公の「僕」と、相方の天才「玖渚友」
  • 物語の終盤、玖渚の成長の歪みが限界に達して、 能力を手放すのか、それともこのまま突っ走るのかの選択を迫られる場面

これは「アルジャーノン状況」じゃないか。

読みながら期待していたのは、壊れていく天才の心理描写。 ところがそんな描写は無し。物語は、現代版の「甲賀忍法帳」だった。

作中の「玖渚友」という人物の造形は秀逸。「壊しがい」を感じる。

  • 演算能力最優先の怪物。品種改良的な作業の果てに作られた人間
  • 人格も人造のものなら、恐怖や喜びといった感情もまた、本人による後付け設定

本人の天才ぶりが、前8冊を費やして延々描かれた挙句、最後は出自の歪みから、 その能力を手放さざるを得ない主人公という図式は、「アルジャーノン」テーマを 現在の知見で再現する最高の機会。

自分の意思で、今まで築いた能力や記憶を手放し、 今まで日常であった世界は失われ、目が覚めたら毎日が知らない異世界

天才的な能力を失うかわりに恐怖を得、後悔を得、最後には、そうした恐怖や後悔の 記憶をも失ってしまい、また能力ゆえにそうした未来の自分を正確に予見できてしまう主人公。

ここから先がつまらないわけがない。

そう期待して終盤を読んだのだけれど、終盤は延々と続く超人バトル。

で、壊れた後の青い天才が出てくるのは、最後の3行ぐらい。

作家の興味がなかったのか、そんな描写に興味を引かれる読者なんかいないのかは 分からないけれど、せっかく「アルジャーノン状況」を無理なく引っ張る舞台ができたのに、 それを描いてくれなかったのは、相当残念に思ったところ。

こうしてほしかった

以下妄想。

  • 日ごと失われていく自分という恐怖に責めさいなまれ、 最後にはその記憶すらも失ってしまった代わりに 得られたものは「心」と「伴侶」だった…なんていうのもベタだけど人魚姫風で面白いかも
  • 天才だから末期になるまで日記が書けるはず。過去に作り上げた能力を壊すくやしさ。 わずかに見える未来への希望。 はるかに多くの絶望や、選択肢を決定した後の不安や後悔。 そんなものを延々と日記型式で描写するのも、 読者を鬱の底に叩きこんでくれそうで吉
  • これは貧弱になった環境へ、自らの資産を移植する物語。知性がまだ残っているうち、 どの記憶を「次の自分」に引き継いで、どの記憶や技能を捨て去るのか。人類を超えた 知性が本当に「大切」と思い、残したものは何なのか
  • 後悔や絶望、恐怖といった呪いにも似たそうした感情の集積はやがて「人格」となり、 かつて人間を超越していた 主人公は、失った能力の代わりに人格と感情とを得て人間として再生した… おとぎ話にも似たテーマだけれど
  • かつて人間の超越者であった「モノ」が、自己進化の果てにたどりついた先が、 ただの人間の子供であった…というオチもありかも。ソマティックマーカー仮説に絡めて

本編はそのまんまでも、本編の中には「壊れる」描写は全くないから、 今出版されているシリーズに矛盾することなく、物語を作るのはまだ可能だと思う。

圧倒的に優れた能力を持つ人がそれを失うとき、何を考えるのか。 とっくに追い越したはずの世界から追いつかれ、また追い抜かれるのが回避できないと 分かったとき、優れた知性の持ち主は、世界に対してどう行動するのか。 優れた知性の持ち主にとって、それを失うこと以上に大切なことというのは何なのか。

作者が考える「天才が壊れる」というのはどういうものなのか。

人間を超越した者は、その力を失ったときに何を考え、何を得るのか。

作家の想像力が生んだ超人、その理想像が壊れる情景、 さらにその先にあるものを見せてほしいという読者も、 きっといると思うんだけれど。